村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」

村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」 (1986年、『新潮』)

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お盆に本をいくつか読んだ。昼ご飯にスパゲッティとビールを楽しんだ後で昼寝をするのだが、早めに目を覚ましてしまうときがあって、そういうときなど他に何もする気が起きないもので、ベッドにごろりとなって本を開いてみる。こんなとき、まちがってもヴァージニア・ウルフなどを手にしてはいけない。恐るべき催眠効果があって、またしても昼寝の延長になり、寝苦しい夜を耐え続けるという苦行になってしまいかねない。

かといってカポーティやフォークナーなども思考回路がまともに働かぬときは開かない方がよく、とても軽めの片岡義男や村上春樹などを読むことにした。片岡義男はついていけない部分がわりと多めの人だけど、一応記事の形にしておいた。村上春樹は『象の消滅』(2005、新潮社)という初期短編集を選んだ。これは作者がアメリカに住んでいたころに米クノップフ社から短編集として出版されたものの日本語版だそうだ。

ふつう本の紹介は一冊単位でやるものだが、今回(とそれ以降)は作品単位でやってみようかと思う。これはすでに夏目漱石でも実行している。ちくま文庫版『夏目漱石全集』が家にあって、それを一冊単位で紹介しようとすると、たった10回で終わってしまうのだ。ウェブログというのはもともと日記のようなもので、それほど長文にするわけにはいかない。そこで夏目漱石は作品ごとに紹介しているわけである。

これは他のジャンルにも言えることで、たとえばプログレ専門のウェブログでいく人なんかは、アルバム単位ではなくて、曲単位で記事を書くことをお勧めする。プログレのアルバムは絶対数が少なくて、アルバム単位で記事を書くとすぐに枯渇してしまう。プログレ専門のウェブログやホームページの多くは、書くことがなくなって休止同然になっているものが少なくないのも以上のような理由によると想像する。

さて今回は「ねじまき鳥と火曜日の女たち」で、初出は1986年『新潮』と巻末にある。「僕」が朝食をしっかりとらなかったために10時過ぎにお腹が減ってスパゲティーをゆでていると、見知らぬ女から電話がかかってきて、十分だけ時間が欲しい、その間に私たちはお互いもっとよくわかりあえると思う、と告げる。「僕」はスパゲティーをゆでているから、と断ろうとすると、後でかけ直すから、と女は電話を切る。

スパゲティーを食べ終わり、シャツにアイロンをかけ終えたころ、今度は妻から電話がかかってきて、いなくなった猫を探してほしい、たぶん「路地」あたりをうろうろしているに違いないから、という。どうして妻が「路地」のことを知っているのか怪訝に思うが、失業中である「僕」は他にすることもなく、「路地」に猫を探しに行くことにする。

「路地」はごく普通の住宅と住宅の間にできた生活通路だが、だれかが一方の入り口をふさいだために、事実上近隣の者以外だれも通行することのない場所。猫を探しながら「僕」が路地を歩いていると、15~6歳くらいの少女に出くわす。彼女は交通事故で怪我をしていて、今は学校を休んでいるのだという。庭に設置されたデッキ・チェアに座りながら、彼女と「僕」は猫が通らないか見張ることにした。

つまり「見知らぬ女」と「妻」、そして「路地の少女」が火曜日の女たち、ということなのだろう。見知らぬ女はどういうわけか「僕」が失業中であることや、その年齢まで「知って」いて、それが「僕」を狼狽させるのだが、この短い架空話の中では女がだれなのかわからないままになってしまう。そして「路地の少女」も、うっかり眠ってしまった時には姿を消しており、彼女は本当にいたのかどうかもはっきりわからぬ始末で、この短い話をいっそう謎めいたものにしている。

「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」、そして「羊をめぐる冒険」のいわゆる「鼠三部作」に登場する「僕」と、本作の「僕」は明らかに違う人物ではあるけれど、それほどくっきり違うようには描かれておらず、あたかも「鼠三部作」の番外編であるかのような錯覚に陥ってしまいそうになるのも魅力といえば魅力になるのではないか。少し引いておきましょう。

「そうかしら」と女は僕の頭にやわらかな楔を打ちこむように、静かな口調で言った。「あなたはそれほど自分の能力に自信が持てるの? あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があるとは思わないの? そうじゃなければあなたは今頃もう少しまともな人間になっていると思わない? あなたくらい頭が良くてひとかどの能力を持った人ならね」(村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『象の消滅』より)

ああこの感じ、この調子、と思わず言いたくなるようではありませんか。なんじゃそれ、その喩え、よくわからないよ、といいたくなる独特の喩えも「村上節」なのだが、こういう台詞の妙味もやはり「村上節」というべきだろう。なんだか雲をつかむような話の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」であるが、本作からあの長編「ねじまき鳥クロニクル」が生まれ出ることを思うと、これまた不思議な気持ちになる。


【付記】
● 以前、スパゲッティの分量は100gが適当だが、男子にはいささか少なすぎるのではないか、という内容の記事(≪「スパゲッティは一人前100gが標準である」へ)を書き、そこで「村上春樹の何かの小説にスパゲッティは150g云々」と述べましたが、本作がまさにその小説です。冒頭で「僕」はスパゲッティをゆでていますが、後でそれが150gであることが明記されています。


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片岡義男 『ミッチェル』

片岡義男 『ミッチェル』(1992年、新潮文庫、単行本は1989年)

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盆休みである。毎年そうであるが何の予定もなく、部屋で過ごすことが多い。午前中ウェブログの記事をまとめて書き、盆明けの多忙に備えておく。洗濯をしたり、部屋の片づけを少々(これは後回しになることが多いが)したりして、お昼になるとスパゲッティなどを作ってビールとともに楽しむ。ビールを飲んでしまうとジン&トニックを作って飲む。いい感じに酔っぱらったところで昼寝して、夕方日差しが弱まった頃に外出。

夕方まで眠り続けているわけではなくて、2時とか3時ころに目を覚ますこともあり、そんなときはもう暑くてたまらない。温度計を見ると35℃くらいになっており、今年の夏が異常に暑いことがわかる。エアコンはすでに備え付けてあっていつでも稼働できる状態なのにエアコンなしの生活をしている。何に、だれに対して意地になっているのかわからず自分で苦笑するしかない。

そういう時間、何もする気が起こらずベッドに横になっているのだが、とりあえず本でも読むか、と本棚を見る。こういうときにぴったりな、軽い感じの本があるではないか。片岡義男『ミッチェル』(1992年、新潮文庫)である。表紙もプールサイドに階段が描いてある涼しげな絵。これはデヴィッド・ホックニーという人の絵だそうだ。集中力が途切れがちな暑さだから、こういう短編集が「ちょっと(だけ)読書」にはもってこいなのだ。

「ミッチェル」という題名を見た瞬間、ジョニ・ミッチェルのことだなとわかる人は音楽好きの人だろう。珍しく「あとがき」が付いているおかげで、作者がジョニ・ミッチェルの歌詞をランダムに並べた「遊び」だとわかるようになっている。ジョニ・ミッチェルのことを知らない人でも、そこに並べられた言葉からなんとなく浮かび上がってくる「彼女」を感じることができるのではないかと思う。

「あの少年の妹」も一種の遊びで、アメリカの有名な偏屈作家(失礼)の有名な作品に登場する少年の妹がその後どうなったか、を創作して書いたもの。なんで彼女が日本に住むことになったのかわからないけれど、とにかく彼女は日本に住んでいる。読み進むにつれて、というか最後のほうで「あの少年」がだれなのか、わかる仕掛けになっている。この段階で「あの少年」が誰なのかわかった人は相当な読書家あるいは偏屈作家(失礼)のファンだと思う。

「ちょうどその頃」では作者のクルマ好き全開にちょっと引いてしまうが、クルマ好きの人には堪えられない一篇ではないかと思う。とある喫茶店の常連としてやってくる女性にふさわしい車として何がいいか、二人のウェイターが話し合うという内容で、ジャガーXJ-S4.0クーペ、ランチア・テーマ、アウディ・クアトロ、BMWのM5、ヴォルヴォ240GL、アルファ164L、レンジ・ローヴァー、シトロエンBX、など固有名詞の羅列に笑ってしまいます。これを「片岡節」とでも呼んでおきましょうか。

初期の片岡義男は男性が主人公の架空話が多かったが、この本ではほとんどが女性の主人公になっている。「サーフボードの運命」「ママ、ママ」「断片の中を歩く」「この色は心の色」「紅茶の真夜中」ではいずれも女性が主人公で、男性とのかかわりに存在価値のすべてを見出すというタイプではなく、男がいないのならそれはそれで構わない、というタイプの女性が描かれている。少し引いておきましょう。

体はまるで別物のように鍛えたけれど、自分はもはや彼のものにはならないのだと、雨のなかにセダンを運転しながら、彼女は思った。これからの自分は、誰のものにもならない。自分は自分だけで充分であり、誰からも、なにからも、充分に距離をとったところに、なにものにもわずらわされることなく、すっきりと独立する。(「この色は心の色」『ミッチェル』新潮文庫より)

いや、格好いいですね。格好いいけれど、相手がいないのはやはり寂しい。寂しいけれど、なにか自分が所有されたような、従属させられるような関係になってしまうのは嫌なのだ。お互いが独立して、依存し合わないような、そんな関係を、男女は結べることができるのだろうか。まあだけど、いろんな女がいて、いろんな男がいるわけだから、依存しあうような関係であってもいいんじゃなかろうか、とも思う。


【付記】
● 夏のちょっとした読書にはぴったりの片岡義男、という感じですが、例の片岡節が暴走する(?)ような部分だけはちょっと勘弁してもらいたくなってしまいます。一方で、あれがあるからこそ片岡義男なんだ、というファンもいることは確実で、そのあたりは好みが分かれるところではないかと思います。

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夏目漱石 「坊っちゃん」

夏目漱石 「坊っちゃん」 (1906年『ホトトギス』に掲載)

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さてお待ちかね、ってだれも待ってなんぞいなかったのは重々承知しつつご存知「坊っちゃん」である。それまで読んでいた漱石の初期作品群に比べると格段に読みやすく、なぜか、ああやっと夏目漱石になった、などと単純に感じてしまうのは私(乙山)だけだろうか。以前岩波少年文庫版で読んだこともあるせいか、すんなり読むことができた。

東京の高校を卒業した若い教師が松山の中学校に新任教師として赴任するわけだが、お馴染みの登場人物たちが面白い。フロックコートを着て理想的言辞ばかり述べ立てる校長の「狸」、なぜか年中赤いフランネルシャツばかり着ている教頭の「赤シャツ」、その教頭にくっついて行動する幇間みたいな「野だいこ」、がさつで荒っぽいけれど生徒の人望が厚い「山嵐」、そしておとなしく君子のような「うらなり」と彼の許婚である(あった)「マドンナ」。

あまりにわかりやすい(ゆえに親しみやすい)類型的な人物造形に、明快で余計なところがなく結末に向かって進む筋書きが相まって、漱石の中でも非常に人気の高い作品となっているのではないかと思う。単純で裏表のない性格の若い主人公が、大人社会の矛盾に首を傾げつつも衝突は避けられず、結局数カ月で辞任してしまうという話で、初めて読んだときはそのあっけなさに「えっ」と思ったものだ。

したたかに計略をめぐらす教頭との対決が話の中心になっているので、生徒たちと主人公の交流についてはあっさり捨象されているところがあるけれど、主人公がてんぷら蕎麦を四杯平らげ(いくらなんでも食べ過ぎでは?)て「天麩羅先生」と呼ばれたり、団子を食っているところを見つかって「団子」と呼ばれたりするところは愛嬌があって好きだ。生徒たちは彼らなりの仕方で新任教師に懐いていたのだと思うが、主人公もまだ若く包容力がない。

主人公の一人称で書かれているところがポイントで、彼の思うところがそのまま読者に伝わってくるし、「坊っちゃん」自体が軽いべらんめえ調(?)で進んでいくのが心地よく、読者は知らぬ間に主人公に感情移入できる(というかしてしまう)ようになっている。それは例えば主人公が中学校の教師たちと初めて顔を合わす個所である。少し引いておきましょう。

それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。何がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。……(中略)……画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。(ちくま文庫版『夏目漱石全集 2』より)

漱石の松山中学校での教師生活は「坊っちゃん」のようなものではなくてわりと平穏に過ぎたようであるが、熊本の五高、帝大の一高、明治大学、帝大英文科講師と渡り歩いた漱石の眼にはさながら「坊っちゃん」のような世界も映ったのではないかと想像する。「坊っちゃん」が社会の縮図を戯画化したもの、というのは言い過ぎかもしれないが、実際に赤シャツや野だいこのような人物がうようよしているのも本当なのだ。

大人社会に矛盾を感じ、それに対決するのだが転覆させることはできず、結局「辞任」という形で主人公は中学校を去り、赤シャツ教頭は何の処分も受けることがなかったわけで、坊ちゃんの反逆は見事に敗北してしまう。これは後に世間の因習と対決する「それから」にも受け継がれていて、道ならぬ恋を選んだ大助と三千代は世間に後ろ指を指されるようにひっそりと暮らすことになり、その行末は「門」に書かれている。

「じきに冬が来るさ」と結ばれる「門」の終末部から伺えるように、世間の因習に対決するものの、主人公はそれを転覆させることはできなかった。だが、いかなる犠牲を払っても自分の感情にしたがって生きることを決意した主人公に、読者はある種のカタルシスを感じるのであり、そこにこそ、「それから」の最大の魅力があるのだろうし、「坊っちゃん」もそうなのだと思う。

議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。(同書より)

今これを読むと主人公の若さに苦笑して、そんなふうにしちゃあいけないな、などと大人の顔でつぶやくのだが、本当はそんなふうにしちゃあいけない、のではなく、到底そんなふうにはできない、のである。生活というものがあるからだ。それは結局、「坊っちゃん」的に言うと、金を得るために様々な矛盾を受け入れないといけないということなのだ。

たとえばそれは、狸や赤シャツ、野だいこのような人間の下で駒のように好きなように動かされることであり、あるいはいつの間にか彼らのような立場に置かれてしまうことなのかもしれぬ。だからこそ私たちは敗れ去る正義の、あるいはその痕跡がどこかに残っているかもしれぬ無垢の、ほろ苦い敗北のバラードをときに聴きたくなるのではないだろうか。


【付記】
● ようやくちくま文庫版『夏目漱石全集 2』を読み終えました。次はいよいよ「猫」に突入します。これがまた、長いんですよねえ……

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夏目漱石 「趣味の遺伝」

夏目漱石 「趣味の遺伝」 (1906年『帝国文学』に掲載))

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夏目漱石の初期、「吾輩は猫である」とほぼ同時期に書かれた作品群を収めたちくま文庫版『夏目漱石全集2』もほぼ終わりに近づいている。ふつうに読めばとっくに終わっているはずの分量なのであるが、読みにくい作品が多くて時間がかかってしまったのだ。たいへんゆっくりしたペースであるが、今回は「趣味の遺伝」を読んでみた。

「趣味の遺伝」は三つの章からなっており、「一」では日露戦争後に凱旋した将軍を見ようとして集まった群衆の中に「余」もいて、ぜひとも将軍を見ようと飛び上がってみたりするのだが、この部分は写生文とでも言えばいいのか、その場の臨場感をできうるかぎり再現しようとして書いたようになっており、「余」は将軍を見て「浩さん」(河上浩一)を思い出す。

「二」は浩さんとの思い出や大陸の塹壕でどんなふうに戦ったのかなどが語られるのだが、この部分は正直読んでいて退屈だった。よほど途中で放り出してしまおうかと思ったくらいだが、初志貫徹という言葉を思い出してしまった。だけど待てよ、そもそもだれが夏目漱石を全部読み通すなどと誓いを立てたのだ、いざとなったらいつでも止められるようにわざと「夏目漱石を読む」というのを正式に企画として扱っていないようにしているのではないか。

てな具合で途中で放り出しては手に取り、また放り出してを繰り返して「二」の終わり頃に浩さんが葬られている駒込の寂光院に「余」が墓参りをする場面にたどり着くが、そこから面白くなってくる。「余」はそこで若く美しい女を見かけるが、彼女はどうやら浩さんの墓前で佇んでいたらしいのだ。生前の浩さんからそのような女性と面識があることなど一切聞かされていなかった「余」は怪訝に思う。少し引いておきましょう。

全体何物だろう。余は高等学校時代から浩さんとは親しい付き合いの一人であった。うちへはよく泊りに行って浩さんの親類は大抵知っている。しかし指を折ってあれこれと順々に勘定して見ても、こんな女は思い出せない。……(中略)……しかし知らぬ女が花まで提さげて浩さんの墓参りにくる訳がない。これは怪しい。少し変だが追懸けて名前だけでも聞いて見みようか、それも妙だ。いっその事黙って後を付けて行く先を見届けようか、それではまるで探偵だ。そんな下等な事はしたくない。どうしたら善かろうと墓の前で考えた。(ちくま文庫版『夏目漱石全集2』より)

そうなのだ。「三」から寂光院の女と浩さんのつながりの謎を解明しようとする探偵小説のような様相を呈してくるのであるが、「余」が聞き込み捜査みたいなことを開始するというわけではない。何か手掛かりがあるのではないかと「余」は浩さんの母と面会して話を聞くのだが、寂光院の女に関する情報は一つも得られなかった。「余」は浩さんがつけていた日記を借り出し、情報を得ようとする。

日記の中で浩さんは、何度か見かけた女を夢で見て不思議に思う旨のことを書いていた。「余」はこれだ、とひざを打ち、寂光院の女と浩さんの不思議なつながりの謎を「遺伝」で解けるのではないかと考える。つまり寂光院の女の何代か前に当たる女と、浩さんの何代か前に当たる男が、いつか、どこかで出会って相思相愛の仲になった。それが遺伝によって引き継がれて寂光院の女と浩さんを引き合わせたのではないか、と仮説を立てる。

余が平生主張する趣味の遺伝と云う理論を証拠立てるに完全な例が出て来た。ロメオがジュリエットを一目見る、そうしてこの女に相違ないと先祖の経験を数十年の後のちに認識する。エレーンがランスロットに始めて逢う、この男だぞと思い詰める、やはり父母未生以前に受けた記憶と情緒が、長い時間を隔てて脳中に再現する。(同書)

漱石は「琴のそら音」においても、死んだ妻が遠く離れて戦地にいる夫に会いに行く、という超常現象に興味を示しているが、ここでもその種の不思議な現象にかなり大真面目に扱っている。どこまで本気なんだろうかと思わぬでもないが、世の中には不思議としか言いようのない説明のつかぬことも多々あるのではないか。前半部分の読み辛さは本当だけど、ユーモア方面ではないオカルトっぽい漱石も面白い。たぶん漱石はその手の話が大好きだったんではないだろうか。


【付記】
● 当時漱石はまだ東京帝大や一高で教鞭をとっていて、作中でも「自分は文士ではない」と明言しているあたりがなんだか面白いですね。この後、朝日新聞社に入社して筆一本で生活を立てることになって教職を辞すわけですが、(お金を貰っている以上何か面白いものを)書かねばならぬという重圧は相当なものだったのではないかと想像します。

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夏目漱石 「薤露行」

夏目漱石 「薤露行」(1905年、『中央公論』に掲載))

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夏目漱石の初期作品の中でも最も読みにくいものの一、二を争うのが「幻影の盾」と「薤露行」(かいろこう)ではないかと思う。おそらく、どちらも日本では馴染みがあまりないと思われる「アーサー王と円卓の騎士」を扱ったもので、しかも文体は文語調で書かれているためではないかと思う。今回はその「薤露行」に挑んでみた。

そもそも「アーサー王と円卓の騎士」を扱ったフィクションが夏目漱石以外になく、日本で制作された映画、あるいは漫画やアニメーションの類にもそのテーマを見たことが私(乙山)にはない。大学やカルチャー講座で「イギリス文学史」などと題目の付いた講義を受講するとか、英文科でイギリスの中世を専攻したということでもなければ、日常では触れることすらないのではないかと思う。

音楽好きの人ならリヒャルト・ワーグナーのオペラで『パルジファル』や『トリスタンとイゾルデ』、あるいは『ローエングリン』などご存知かもしれないが、彼らが円卓の騎士(ローエングリンはパルジファルの息子)である。どういうわけかアーサー王自身より円卓の騎士のメンバーを取り上げたものも多く、漱石の「薤露行」もランスロット卿を主人公にしている。

何の予備知識もないまま読んでしまうと本当にわけがわからなくなってしまうので、ウィキペディアなどを利用して知識を仕入れておきましたよ。こうやって正直に書いておかないと、にわか仕込みの付け焼刃をうのみにされてしまうではないか。実際、アーサー王と円卓の騎士に詳しい人なんて、英文科の一部の先生かそれを専攻した人、あるいは何かの縁でそれに興味を持って個人的にのめり込んだ人くらいしかいないんじゃないかと思う。

さて円卓の騎士のメンバーの中でもランスロットは武術に優れ、彼の右に出る者はいないほどだという。また騎士道を守る生き方も、円卓の騎士の中でも並ぶものがいなかったとされるほどの人で、そんなランスロットを慕う女性も数多くいたようだ。なかでもアーサー王妃グィネヴィア(漱石の作中ではギニヴィア)との不義の恋、アストラット(シャロット)のエレイン姫の恋慕が名高い。

「薤露行」の前書きで自身が書いているように、漱石はトーマス・マロリーの『アーサー王の死』やアルフレッド・テニスンの『国王牧歌』にあたって、それらをもとに漱石の隠れ主題ともいえる「愛してはならぬ人を愛してしまった者」をランスロットとグィネヴィアの不義の恋に描き出しているが、メインは一応エレイン姫の「叶わぬ想い」になるのであろうか。なお「薤露行」というのは葬儀の歌ということだそうだ。

北の方面で馬上武術の試合があるのでそれに参加するランスロットはグィネヴィアとしばしの別れを告げ、途中で立ち寄ったシャロットの城でランスロットはエレインから紅色の袖を贈られ、それを兜に巻いて試合に臨む。試合が終わり、皆それぞれに帰って行くのだが、ランスロットはどういうわけか姿を見せない。彼を待つグィネヴィアとアーサー王のやりとりが秀逸である。少し引いておきましょう。

 ……ギニヴィアはまた口を開く。
「後れていくものは遅れて帰る掟か」と云い添えて片頬に笑う。女の笑うときは危うい。「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏やかに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
 恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐に刺されし痛を受けて、すわやと躍り上がる。耳の裏には颯と音して熱き血を注す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿し毛に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女と云うと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾日を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」(ちくま文庫版『夏目漱石全集2』「薤露行」第四章「罪」より)

これなんかもう、『アンナ・カレーニナ』で夫のカレーニンが横にいるにもかかわらず、ヴロンスキーが落馬した瞬間、立ち上がらずには居られなかったアンナを思い出してしまうような場面ではないか。道ならぬ恋、を後に書いた漱石も、この当時は「猫」のような高みの見物的作品(余裕派?)が表看板だったためか、恋の話を書くときにはどうしても照れのようなものが出てしまったのだろうか、硬い文語調の文体もその照れ隠しだったのではないか、などと勝手に想像している。


【付記】
● 「薤露行」は「幻影の盾」以上に恋を描き切ったものだと言えましょう。この後の「坊っちゃん」でも「三四郎」でもまだ淡いかたちでしか書かれない「恋」がここで思い切り書かれているのです。道ならぬ不義の恋、という重要な主題も表れており、読みにくいけれど本当に書きたかったのはこれなのかな、と思わせるものがあります。

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只野乙山

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