村上春樹 「カンガルー通信」

村上春樹 「カンガルー通信」(初出は『新潮』1981年10月号)

MurakamiHaruki_TheElephantVanishes.jpg
村上春樹初期短編集『象の消滅』(2005年、新潮社)から今回は「カンガルー通信」を読んだ。初出は『新潮』1981年10月号とあるから、これは作者がデビューしてから書いたものの最初期にあたるのではないかと思う。たしか「風の歌を聞け」は1979年頃だったのではないか。計算してみるともう30年以上前のことになる。えっ、という感じだ。

デパートの商品管理課に勤める26歳の「僕」の仕事内容は、クレーム処理係である。電話や手紙などで寄せられるありとあらゆる苦情に対応する毎日だが、ある一通の手紙に書かれた「苦情」に深く心を惹かれた「僕」が、苦情を申し立てる本人(若い女性)に対して、通常の方法ではなく、カセット・テープに話を録音したものを彼女に贈る、という方法をとる。

もちろんこれは架空話で、現実にはそんなふうに対応することはまずあり得ないだろうけど、架空話だからいいのだ。彼女の「苦情」とは、「ブラームスのシンフォニーとマーラーのシンフォニーのレコードを間違えて買ってしまった」というもの。一週以上経ってしまった商品、しかも開封した商品を、レシートもなしで返品などできるわけはないのだが、なぜか「僕」はそんな彼女の苦情に対応する。

カセット・テープに録音するには録音機が必要なのだろうけど、当時のラジオカセット・テープレコーダーにはマイクロフォンが内蔵してあって、録音ボタンを押すと音声が録音できる仕組みになっていたのではないかと思う。本作では「VUメーターを見ながら」録音している、とあるので、いわゆるラジカセではなく、テープ・デッキにマイクをつないだものかもしれない。少し引いておきましょう。

だから僕は今、ずっとVUメーターの針に向って話しかけています。VUメーターって知ってますよね。音量にあわせてピクピクと針が振れるあれです。VとUというのが何の頭文字なのか、僕にはわからない。しかしなんといっても、彼らは僕の演説に対して反応を示してくれる唯一の存在なのです。(村上春樹『象の消滅』所収「カンガルー通信」より)

これは時代を感じさせてくれますね。こういう部分、知らない人にとっては何のことだかさっぱり意味不明かもしれないが、1970~1980年代前半、CDが登場してデジタル・オーディオに移行するまで、カセット・テープとラジオというのが非常に重要な音楽媒体だった。オーディオが好きな男の子は、テープ・デッキに何を選ぶか、ということに異様に熱心だった、と思う。

アイワ、アカイ、ティアック、ナカミチというテープ・デッキ四天王があって、アイワは格好いいがデザイン先行型だ、アカイはマニアックすぎるしデザインがあか抜けていないとか、ティアックはあの金庫のダイヤルみたいなノブが嫌だ、ナカミチは音はいいだろうが黒一色のデザインが……などと小僧たちは熱い議論を戦わせたものである。

しかもドルビー研究所やdbx社のノイズ・リダクション・システムがどうのこうの、テープもノーマルとフェリ・クローム、メタルテープと色々あって、バイアスを適切にかけないといかんとか、もう百花繚乱、いちばん楽しい頃だった。録音レベルのメーターも、村上春樹がいうVUメーターの他に「ピークレベル・メーター」というものもあって、どちらが云々、面白いと言ったらなかったのである。

話が逸れてしまったが、カセット・テープはあまねく広まっていたと思われるもので、だからこそこの話が成り立つのだろう。今の時代では音楽媒体が一本化していないので、こういうメッセージの伝え方はできないのではないかと思う。「カンガルー通信」は「僕」の一方的なメッセージで、それが苦情を呈した当の女性に伝わったかどうか、それすらわからないのだけど、作者の初期の絶妙な軽口を味わうことができると思う。


【付記】
● なぜカンガルーなのか、どういうわけで苦情に対する対応がカンガルーと結びつくのか、それは本作を紐解いていただくほかありません。いささか突飛な直喩が「村上節」たる所以なのですが、ある意味で本作は村上節全開になっているのではないかと感じました。


人気ブログランキングへ blogram投票ボタン
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

この小説は読んだことありませんが、記事を拝見するにとても面白そうです。
私もなまじ歳を取っているせいで若者たちが処理出来ないような事案が来ると、私に投げてよこす事が多くなりました。
ですからこの引用文にとても興味を引かれます。今度読んでみようかなと…。

ちなみにカセットデッキ談義はとても懐かしいですね。
2ヘッドだ、フェリクロームテープ対応だ、ドルビー対応だ、いやいや東芝のアドレスも侮れんとか、やっぱり2モーターでしょうとか、フェザータッチとかテープが45度傾いた方がイイとか…。

すっかり忘れ掛かっていましたが、そんな時代もありましたねぇ…。

Re: Noriさん

Noriさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
乙山がいまだに突発性オーディオ症候群に取りつかれてしまうのも、
この時代にどっぷりオーディオにはまり込んでしまったからでしょう。

テープ・デッキ選びは楽しかったですねえ。
友人に大阪の日本橋まで連れて行かれ、どれにするか助言を求められたり……
皆には不評でしたが、乙山はティアックのC3が欲しかった。
結局、それには手が届かず、下位機種で妥協しました。

とりあえずテープ・デッキさえあれば、父親とか兄貴のステレオ装置を借りて
レンタル・レコードをダビングしてヘッドフォンで聴けましたものね。
アンプを通すと音がグレード・アップしたような気になって有頂天に。
そしていよいよ、スピーカーを買う段になるんですね。

レコード・プレーヤーとレコードはずっと後回しになるんですが、
その頃にはもう、CDが出回っていて……
結局、乙山の音源はCDがほとんどということになってしまいました。
今、その頃の恨みを晴らすかのように(?)、音源を買ってしまいます。

No title

村上春樹。今回もノーベル賞ならず。
やはり、授賞理由に相当するものが明確でない、ということなのでしょうかね。
なぜ、この作家なのか、ということになりますか。

ともかく、村上春樹ファンががっかりしているようです。

乙山先生もNoriさんもオーディオ小僧だったんですね。うふふ。

Re: 根岸冬生さん

根岸さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
ノーベル賞云々に関しては御本人も周囲が騒ぐのに辟易しているでしょう。

もともとリアリティを追求するタイプではなく、
それが日本伝統の「小説=私小説=純文学」というイメージに、
ぴったり来なかったせいもあって、
日本でもそんなに受賞に恵まれている人ではありませんものね。
今思えば「直木賞」というのがぴったりの人でしたろうに。

乙山はどうしようもないオーディオ小僧でした。
だから今でも、突発性オーディオ症候群に悩まされております。

おはようございます。

只野乙山様

突発性オーディオ症候群、しっかり発症してください。そしてケアを果てしなく考察していきましょう。

私も最近でもたまにカセットテープに録音してみますが、それを聴き返すことは殆どありません。

当時を懐かしんでの儀式にすぎません。少し寂しいのは、それを笑ってくれる人すら周りにはいません。

時代は流れます。

ただ小説に流れる根底のメッセージというものは普遍的なもののようですね。

また私も読み返してみます。

Re: おはようございます。 ; ハゼドンさん

ハゼドンさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
ハゼドンさんのダイナコ変身の記事を拝見して、
オーディオ装置の本格的なのに驚き、感動しました。

乙山はオーディオといってもそれほど本格的ではなく、
趣味がオーディオだなどと胸を張って言えるレベルではありません。
ですがいまだにオーディオが好きなのでしょうか、
突発性オーディオ症候群に、ふっととりつかれてしまうことがあります。

> ただ小説に流れる根底のメッセージというものは普遍的なもののようですね。

仰る通りだと思います。
そうでなければ、村上春樹の小説が多くの国で読まれることもないでしょう。
何か普遍的なものがあるからこそ、言葉の壁を超えて届くのだと思います。
プロフィール

只野乙山

Author:只野乙山

⚫︎ できれば「只野乙山=ただのおつざん」とお読みくだされば、と思います。

⚫︎ 文字中心のウェブログ。ほとんど一話完結で、どの記事をご覧になっても楽しめ(?)ます。文字数だけなら一冊の本に匹敵(凌駕?)するほどありますので、ごゆっくりどうぞ。

⚫︎ 下の「全ての記事を表示する」をクリックすると、全記事のタイトル一覧が出ますので過去記事を参照することができます。

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
最新コメント

openclose

最新トラックバック
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

アーカイヴ

2017/08 (4)

2017/07 (9)

2017/06 (9)

2017/05 (9)

2017/04 (8)

2017/03 (9)

2017/02 (4)

2017/01 (1)

2016/06 (1)

2016/05 (13)

2016/04 (13)

2016/03 (20)

2016/02 (10)

2016/01 (11)

2015/12 (10)

2015/11 (10)

2015/10 (11)

2015/09 (13)

2015/08 (10)

2015/07 (11)

2015/06 (10)

2015/05 (10)

2015/04 (10)

2015/03 (11)

2015/02 (9)

2015/01 (11)

2014/12 (9)

2014/11 (10)

2014/10 (11)

2014/09 (10)

2014/08 (10)

2014/07 (10)

2014/06 (10)

2014/05 (11)

2014/04 (10)

2014/03 (10)

2014/02 (9)

2014/01 (11)

2013/12 (9)

2013/11 (10)

2013/10 (10)

2013/09 (10)

2013/08 (11)

2013/07 (10)

2013/06 (10)

2013/05 (10)

2013/04 (10)

2013/03 (11)

2013/02 (9)

2013/01 (11)

2012/12 (9)

2012/11 (10)

2012/10 (11)

2012/09 (10)

2012/08 (10)

2012/07 (10)

2012/06 (10)

2012/05 (11)

2012/04 (10)

2012/03 (10)

2012/02 (10)

2012/01 (9)

2011/12 (9)

2011/11 (10)

2011/10 (10)

2011/09 (10)

2011/08 (10)

2011/07 (9)

2011/06 (9)

2011/05 (10)

2011/04 (8)

2011/03 (8)

2011/02 (12)

2011/01 (12)

2010/12 (12)

2010/11 (13)

2010/10 (15)

2010/09 (15)

2010/08 (14)

2010/07 (16)

2010/06 (17)

2010/05 (21)

2010/04 (18)

2010/03 (20)

2010/02 (23)

2010/01 (27)

2009/12 (27)

2009/11 (27)

2009/10 (26)

2009/09 (24)

2009/08 (19)

2009/07 (21)

2009/06 (30)

2009/05 (26)