村上春樹 「パン屋再襲撃」

村上春樹 「パン屋再襲撃」 (初出は「マリ・クレール」1985年8月号)

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村上春樹の初期短編集『象の消滅』(2005年、新潮社)から今回は「パン屋再襲撃」を読んだ。法律事務所に勤める「僕」はデザイン・スクールの事務をしている妻がいて、二人は夕方6時ごろに軽い夕食をとり、9時半ごろにはベッドに入って眠ったはずなのだが、どういうわけか深夜2時ごろに目を覚ましてしまう。二人は恐ろしいほどの空腹を感じるのだが、冷蔵庫には食べ物がほとんど残っていなかった。

いわゆる「鼠三部作」に登場する「僕」はたしか相棒と翻訳の会社をしていたはずだから、それらとは全く関係ない「僕」のはずなんだけど、なんだか同じ「僕」のように感じてしまうのは私(乙山)だけではないような気がする。その「僕」と妻は極度の空腹を感じながらビールを飲んでいるのだが、かつてこんなに腹が減ったことがあったのを思い出す。そうだ、あれはパン屋を襲撃したときだった、と。

そして「僕」は妻に、むかしパン屋を襲撃したことがあってね、と話を切り出す。こんなふうに恐ろしいまでの空腹を感じた「僕」と相棒(「鼠」を想起してしまいますね)は、空腹を満たすだけの食べ物を得ようと、小さなパン屋を「襲撃」することにした。深夜、ナイフだの包丁だのを手に、町の小さなパン屋に押し入るのだが、パン屋の主人はワーグナーのオペラ(『タンホイザー』と『さまよえるオランダ人』の序曲)を聴いてくれたら、ただでパンをくれてやる、と提案し、「僕」と相棒はそれを受け入れることにした。

だから「襲撃」は成功したのか失敗したのかよくわからない結果となった。もちろん、パンは手に入れたのだから目的は果たしたことになるのだが、きちんと(?)「襲撃」した結果パンを手に入れたわけではない。彼らはたんに「交渉」に乗っただけなのだ。この奇妙な「パン屋襲撃」の話を聞いた妻は、呪いがかかっているのよ、と言いだし、もう一度、きっちりパン屋を襲撃しないとこの呪いは解けない、という。

「もし君が言うようにそれが呪いだとしたら」と僕は言った。「僕はいったいどうすればいいんだろう?」
「もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね」と彼女は断言した。「それ以外にこの呪いをとく方法はないわ」
「今すぐに?」と僕は聞きかえした。
「ええ、今すぐよ。この空腹感が続いているあいだにね。果されなかったことを今果すのよ」
「でもこんな真夜中にパン屋が店を開けているものなのかな?」
「探しましょう」と妻は言った。「東京は広い街だもの、きっとどこかに一晩中営業しているパン屋の一軒くらいあるはずよ」(『象の消滅』所収「パン屋再襲撃」より)

それから「僕」と妻は中古のトヨタ・カローラに乗って、午前2時半の東京の街を、パン屋を求めてさまようのだが、驚くべきことに、後部座席には「レミントンのオートマティック式の散弾銃」があって、コンパートメントには「黒いスキー・マスクが二つ」入っていた、とある。もちろん「僕」もどうして妻が散弾銃を所有したりしていたのか、見当もつかなかった、と言っているけれど、日本ではあまりに荒唐無稽に感じてしまう。

アメリカといっても州によって法律も違うだろうから一概には言えないけれど、おそらくアメリカだったら、この部分はさほど違和感なく受け入れられたのではないかと思う。隣の家まで車で何分もかかるような地域に住んでいたら、もし誰かが家に押し入ってきたりしたらどうなるだろう、と想像してしまう。映画などでも、壁にごく普通にライフルや散弾銃が掛けられていて、それをさっと手にする場面を幾度も見たではないか。

ハルキ・ヒーローはだいたい「引き込まれ型」が多いのだが、本作もパン屋の再襲撃は妻が言い出したことで、妻主導で再襲撃が進んでいく。だが、東京で深夜に営業しているパン屋を探し出すことのできない二人が、最終的に選んだターゲットとは? ええっ、それはないでしょう、と思わず笑ってしまうのだが、架空話ではそれもまた「あり」なのである。この話にリアリティを求めてはなりません。


【付記】
● ハルキ・ヒーローはおおむね「引き込まれ型」の典型的なアンチ・ヒーローなのですが、それに対してハルキ・ヒロインは格好いい女性が登場しますね。本作の「妻」もそうですし、彼女たちが後の『1Q84』のハードボイルド・ヒロイン「青豆」に結実するわけですね。


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No title

 村上春樹の作品はひとつも読んでいないので、えらそう
なことをいう資格はまったくないのですが……

 ずいぶん以前、なんとかいう文章読本で彼の文章の引用
を読んだときは、ずいぶん会話が翻訳調だなあと思ったこ
とがあります。ぼくは「日本文学」としてはちょっと違和
感をおぼえたのですが、そこが洒落ていていいという読者
も当然いるのだろうなと思いました。

 乙山さんが引用された部分を読んで、あらためてぼくの
第一印象は正しかったと感じました。特に最初の一文など、
英文解釈の参考書を読んでいるような気分になりましたよ(笑)。

 翻訳で飯を食っていた時期があるというので、なるほど
と納得しました。

Re: 薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
村上春樹の文体が翻訳調に近い、というのはわりと多くの人が感じるようですね。
日本語は男性語と女性語、敬語、方言と共通語がありますので、
主語を省いたり、発話後にだれの言葉なのか指定しなくてもよいのです。
むしろそれらがないほうが、日本語としては自然なのでしょう。

これは乙山だけかもしれませんが、
日本の小説を読んでいて気になるのは、かぎかっこの処理でして、
たとえば発話をどうしてもかぎかっこに入れて独立した一行にするやり方、
あれが気になって仕方ありません。

ちょうど今、コメントを書く際は勝手に改行していますが、 
これにとても似ていて、何か途中で切れてしまっているような、
違和感を抱いてしまいます。村上春樹の文章では、そういう違和感がありません。
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只野乙山

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