村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」 (1986年、『新潮』)


お盆に本をいくつか読んだ。昼ご飯にスパゲッティとビールを楽しんだ後で昼寝をするのだが、早めに目を覚ましてしまうときがあって、そういうときなど他に何もする気が起きないもので、ベッドにごろりとなって本を開いてみる。こんなとき、まちがってもヴァージニア・ウルフなどを手にしてはいけない。恐るべき催眠効果があって、またしても昼寝の延長になり、寝苦しい夜を耐え続けるという苦行になってしまいかねない。
かといってカポーティやフォークナーなども思考回路がまともに働かぬときは開かない方がよく、とても軽めの片岡義男や村上春樹などを読むことにした。片岡義男はついていけない部分がわりと多めの人だけど、一応記事の形にしておいた。村上春樹は『象の消滅』(2005、新潮社)という初期短編集を選んだ。これは作者がアメリカに住んでいたころに米クノップフ社から短編集として出版されたものの日本語版だそうだ。
ふつう本の紹介は一冊単位でやるものだが、今回(とそれ以降)は作品単位でやってみようかと思う。これはすでに夏目漱石でも実行している。ちくま文庫版『夏目漱石全集』が家にあって、それを一冊単位で紹介しようとすると、たった10回で終わってしまうのだ。ウェブログというのはもともと日記のようなもので、それほど長文にするわけにはいかない。そこで夏目漱石は作品ごとに紹介しているわけである。
これは他のジャンルにも言えることで、たとえばプログレ専門のウェブログでいく人なんかは、アルバム単位ではなくて、曲単位で記事を書くことをお勧めする。プログレのアルバムは絶対数が少なくて、アルバム単位で記事を書くとすぐに枯渇してしまう。プログレ専門のウェブログやホームページの多くは、書くことがなくなって休止同然になっているものが少なくないのも以上のような理由によると想像する。
さて今回は「ねじまき鳥と火曜日の女たち」で、初出は1986年『新潮』と巻末にある。「僕」が朝食をしっかりとらなかったために10時過ぎにお腹が減ってスパゲティーをゆでていると、見知らぬ女から電話がかかってきて、十分だけ時間が欲しい、その間に私たちはお互いもっとよくわかりあえると思う、と告げる。「僕」はスパゲティーをゆでているから、と断ろうとすると、後でかけ直すから、と女は電話を切る。
スパゲティーを食べ終わり、シャツにアイロンをかけ終えたころ、今度は妻から電話がかかってきて、いなくなった猫を探してほしい、たぶん「路地」あたりをうろうろしているに違いないから、という。どうして妻が「路地」のことを知っているのか怪訝に思うが、失業中である「僕」は他にすることもなく、「路地」に猫を探しに行くことにする。
「路地」はごく普通の住宅と住宅の間にできた生活通路だが、だれかが一方の入り口をふさいだために、事実上近隣の者以外だれも通行することのない場所。猫を探しながら「僕」が路地を歩いていると、15~6歳くらいの少女に出くわす。彼女は交通事故で怪我をしていて、今は学校を休んでいるのだという。庭に設置されたデッキ・チェアに座りながら、彼女と「僕」は猫が通らないか見張ることにした。
つまり「見知らぬ女」と「妻」、そして「路地の少女」が火曜日の女たち、ということなのだろう。見知らぬ女はどういうわけか「僕」が失業中であることや、その年齢まで「知って」いて、それが「僕」を狼狽させるのだが、この短い架空話の中では女がだれなのかわからないままになってしまう。そして「路地の少女」も、うっかり眠ってしまった時には姿を消しており、彼女は本当にいたのかどうかもはっきりわからぬ始末で、この短い話をいっそう謎めいたものにしている。
「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」、そして「羊をめぐる冒険」のいわゆる「鼠三部作」に登場する「僕」と、本作の「僕」は明らかに違う人物ではあるけれど、それほどくっきり違うようには描かれておらず、あたかも「鼠三部作」の番外編であるかのような錯覚に陥ってしまいそうになるのも魅力といえば魅力になるのではないか。少し引いておきましょう。
「そうかしら」と女は僕の頭にやわらかな楔を打ちこむように、静かな口調で言った。「あなたはそれほど自分の能力に自信が持てるの? あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があるとは思わないの? そうじゃなければあなたは今頃もう少しまともな人間になっていると思わない? あなたくらい頭が良くてひとかどの能力を持った人ならね」(村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『象の消滅』より)
ああこの感じ、この調子、と思わず言いたくなるようではありませんか。なんじゃそれ、その喩え、よくわからないよ、といいたくなる独特の喩えも「村上節」なのだが、こういう台詞の妙味もやはり「村上節」というべきだろう。なんだか雲をつかむような話の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」であるが、本作からあの長編「ねじまき鳥クロニクル」が生まれ出ることを思うと、これまた不思議な気持ちになる。
かといってカポーティやフォークナーなども思考回路がまともに働かぬときは開かない方がよく、とても軽めの片岡義男や村上春樹などを読むことにした。片岡義男はついていけない部分がわりと多めの人だけど、一応記事の形にしておいた。村上春樹は『象の消滅』(2005、新潮社)という初期短編集を選んだ。これは作者がアメリカに住んでいたころに米クノップフ社から短編集として出版されたものの日本語版だそうだ。
ふつう本の紹介は一冊単位でやるものだが、今回(とそれ以降)は作品単位でやってみようかと思う。これはすでに夏目漱石でも実行している。ちくま文庫版『夏目漱石全集』が家にあって、それを一冊単位で紹介しようとすると、たった10回で終わってしまうのだ。ウェブログというのはもともと日記のようなもので、それほど長文にするわけにはいかない。そこで夏目漱石は作品ごとに紹介しているわけである。
これは他のジャンルにも言えることで、たとえばプログレ専門のウェブログでいく人なんかは、アルバム単位ではなくて、曲単位で記事を書くことをお勧めする。プログレのアルバムは絶対数が少なくて、アルバム単位で記事を書くとすぐに枯渇してしまう。プログレ専門のウェブログやホームページの多くは、書くことがなくなって休止同然になっているものが少なくないのも以上のような理由によると想像する。
さて今回は「ねじまき鳥と火曜日の女たち」で、初出は1986年『新潮』と巻末にある。「僕」が朝食をしっかりとらなかったために10時過ぎにお腹が減ってスパゲティーをゆでていると、見知らぬ女から電話がかかってきて、十分だけ時間が欲しい、その間に私たちはお互いもっとよくわかりあえると思う、と告げる。「僕」はスパゲティーをゆでているから、と断ろうとすると、後でかけ直すから、と女は電話を切る。
スパゲティーを食べ終わり、シャツにアイロンをかけ終えたころ、今度は妻から電話がかかってきて、いなくなった猫を探してほしい、たぶん「路地」あたりをうろうろしているに違いないから、という。どうして妻が「路地」のことを知っているのか怪訝に思うが、失業中である「僕」は他にすることもなく、「路地」に猫を探しに行くことにする。
「路地」はごく普通の住宅と住宅の間にできた生活通路だが、だれかが一方の入り口をふさいだために、事実上近隣の者以外だれも通行することのない場所。猫を探しながら「僕」が路地を歩いていると、15~6歳くらいの少女に出くわす。彼女は交通事故で怪我をしていて、今は学校を休んでいるのだという。庭に設置されたデッキ・チェアに座りながら、彼女と「僕」は猫が通らないか見張ることにした。
つまり「見知らぬ女」と「妻」、そして「路地の少女」が火曜日の女たち、ということなのだろう。見知らぬ女はどういうわけか「僕」が失業中であることや、その年齢まで「知って」いて、それが「僕」を狼狽させるのだが、この短い架空話の中では女がだれなのかわからないままになってしまう。そして「路地の少女」も、うっかり眠ってしまった時には姿を消しており、彼女は本当にいたのかどうかもはっきりわからぬ始末で、この短い話をいっそう謎めいたものにしている。
「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」、そして「羊をめぐる冒険」のいわゆる「鼠三部作」に登場する「僕」と、本作の「僕」は明らかに違う人物ではあるけれど、それほどくっきり違うようには描かれておらず、あたかも「鼠三部作」の番外編であるかのような錯覚に陥ってしまいそうになるのも魅力といえば魅力になるのではないか。少し引いておきましょう。
「そうかしら」と女は僕の頭にやわらかな楔を打ちこむように、静かな口調で言った。「あなたはそれほど自分の能力に自信が持てるの? あなたの頭の中のどこかに致命的な死角があるとは思わないの? そうじゃなければあなたは今頃もう少しまともな人間になっていると思わない? あなたくらい頭が良くてひとかどの能力を持った人ならね」(村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」『象の消滅』より)
ああこの感じ、この調子、と思わず言いたくなるようではありませんか。なんじゃそれ、その喩え、よくわからないよ、といいたくなる独特の喩えも「村上節」なのだが、こういう台詞の妙味もやはり「村上節」というべきだろう。なんだか雲をつかむような話の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」であるが、本作からあの長編「ねじまき鳥クロニクル」が生まれ出ることを思うと、これまた不思議な気持ちになる。
【付記】
● 以前、スパゲッティの分量は100gが適当だが、男子にはいささか少なすぎるのではないか、という内容の記事(≪「スパゲッティは一人前100gが標準である」へ)を書き、そこで「村上春樹の何かの小説にスパゲッティは150g云々」と述べましたが、本作がまさにその小説です。冒頭で「僕」はスパゲッティをゆでていますが、後でそれが150gであることが明記されています。
● 以前、スパゲッティの分量は100gが適当だが、男子にはいささか少なすぎるのではないか、という内容の記事(≪「スパゲッティは一人前100gが標準である」へ)を書き、そこで「村上春樹の何かの小説にスパゲッティは150g云々」と述べましたが、本作がまさにその小説です。冒頭で「僕」はスパゲッティをゆでていますが、後でそれが150gであることが明記されています。


- 関連記事
-
- 村上春樹 「カンガルー通信」 (2013/10/15)
- 村上春樹 「パン屋再襲撃」 (2013/09/27)
- 村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」 (2013/09/06)
- 片岡義男 『ミッチェル』 (2013/08/16)
- 夏目漱石 「坊っちゃん」 (2013/02/24)
スポンサーサイト
コメントの投稿
書物のパワーです・・・。
只野乙山様
村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、少しセンチになります。やはり自分自身が多感な頃、出逢った作品達は格別です。片岡義男もそうですが。
当時、何か自分に意味の無い「自信」が漲っていたことが「うれし、恥ずかしく、懐かしく」思い出されます。
少し探して読み返してみたいです。
村上春樹 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、少しセンチになります。やはり自分自身が多感な頃、出逢った作品達は格別です。片岡義男もそうですが。
当時、何か自分に意味の無い「自信」が漲っていたことが「うれし、恥ずかしく、懐かしく」思い出されます。
少し探して読み返してみたいです。
Re: 書物のパワーです・・・。 ; ハゼドンさん
ハゼドンさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
昔(というか今もそうかもしれませんが)新しいものはとりあえずパス、
というひねくれ精神を発揮してしまい、
1970年代後半以降に登場した作家をずいぶん読まずにいたのです。
ずっと後になって村上春樹や片岡義男を読み、
それをこうして書いているというわけです。
ですが、1990年代が一昔前になってしまいましたね。
昔(というか今もそうかもしれませんが)新しいものはとりあえずパス、
というひねくれ精神を発揮してしまい、
1970年代後半以降に登場した作家をずいぶん読まずにいたのです。
ずっと後になって村上春樹や片岡義男を読み、
それをこうして書いているというわけです。
ですが、1990年代が一昔前になってしまいましたね。
No title
乙山さん、こんにちは。
偶然にカポーティの「遠い声 遠い部屋」を読んでいる途中です。
確かに思考回路が混乱している時は避けたほうがいい作家ですね(笑)
村上春樹は丁度、日本を離れた頃に出現した方なのでリアルタイムで読んだ事がありませんでしたが、友人のお蔭で10冊ほど5-6年前に一挙に読む事ができました。なんだか癖のある文体で初めは読みづらかったですが、だんだん面白くなってきました。
こちらの図書館にもたまに英語版がおいてあったりします。ちなみに吉本バナナさんのも英語で読みました。後で日本語を読む機会があったけど、やはりオリジナルの日本語「キッチン」の方が面白みがありました。
翻訳版は本当に、オリジナルのエッセンスが無くなってしまう場合があるので難しいですね、でも三島由紀夫の翻訳をされているドナルド・キーンさんの翻訳は凄い的確と思いました。日本を知り尽くしておられると感じました。
偶然にカポーティの「遠い声 遠い部屋」を読んでいる途中です。
確かに思考回路が混乱している時は避けたほうがいい作家ですね(笑)
村上春樹は丁度、日本を離れた頃に出現した方なのでリアルタイムで読んだ事がありませんでしたが、友人のお蔭で10冊ほど5-6年前に一挙に読む事ができました。なんだか癖のある文体で初めは読みづらかったですが、だんだん面白くなってきました。
こちらの図書館にもたまに英語版がおいてあったりします。ちなみに吉本バナナさんのも英語で読みました。後で日本語を読む機会があったけど、やはりオリジナルの日本語「キッチン」の方が面白みがありました。
翻訳版は本当に、オリジナルのエッセンスが無くなってしまう場合があるので難しいですね、でも三島由紀夫の翻訳をされているドナルド・キーンさんの翻訳は凄い的確と思いました。日本を知り尽くしておられると感じました。
Re: まん丸クミさん
まん丸クミさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
そうそう『遠い声 遠い部屋』(新潮文庫)が乙山の本棚にあります。
他に『夜の樹』(新潮文庫)もあるようです。
こういうのは、頭脳明晰な時、これから涼しくなってくるころにぴったりですね。
そちらではもうかなり涼しくなっているのではないでしょうか。
こちらはまだ25℃以上で、上着なしで歩き回っていますよ。
やはり秋彼岸までは暑い日が続きそうです。
1980年代、例の『ノルウェイの森』が大ヒットしたころは、
どうしても読む気になれませんでしたが、1990年代になってようやく、
初期の頃をまとめて読むことができるようになりました。
なんでこんなに避けてたんだろう、と後になって苦笑する思いです。
翻訳は難しいですね。村上春樹は翻訳もたくさん手掛けていて、
レイモンド・カーヴァーもたくさん訳しています。
大学の頃、カーヴァーの原文を読む機会があって、
それを思い出しながら村上春樹訳を読むと、うまい翻訳だなあと思います。
ドナルド・キーンさんやエドワード・サイデンステッガーさん、
ご両人とも日本に永住する決意をなさっています。
残念ながらサイデンステッガーさんは亡くなっていますが、
そういう人だからこそ、という感じがしました。
そうそう『遠い声 遠い部屋』(新潮文庫)が乙山の本棚にあります。
他に『夜の樹』(新潮文庫)もあるようです。
こういうのは、頭脳明晰な時、これから涼しくなってくるころにぴったりですね。
そちらではもうかなり涼しくなっているのではないでしょうか。
こちらはまだ25℃以上で、上着なしで歩き回っていますよ。
やはり秋彼岸までは暑い日が続きそうです。
1980年代、例の『ノルウェイの森』が大ヒットしたころは、
どうしても読む気になれませんでしたが、1990年代になってようやく、
初期の頃をまとめて読むことができるようになりました。
なんでこんなに避けてたんだろう、と後になって苦笑する思いです。
翻訳は難しいですね。村上春樹は翻訳もたくさん手掛けていて、
レイモンド・カーヴァーもたくさん訳しています。
大学の頃、カーヴァーの原文を読む機会があって、
それを思い出しながら村上春樹訳を読むと、うまい翻訳だなあと思います。
ドナルド・キーンさんやエドワード・サイデンステッガーさん、
ご両人とも日本に永住する決意をなさっています。
残念ながらサイデンステッガーさんは亡くなっていますが、
そういう人だからこそ、という感じがしました。
村上春樹
こんにちは。
3年前から村上春樹を本格的に読むようになりました。
ご紹介の本は持っていませんが、 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は読みました。そして「ねじまき鳥クロニクル」も。
短編の方は、不思議な世界で僕の感覚がついていけなかったという感想を持ちました。
その後に読んだ長編はかなり楽しめました。
今後の村上作品のプレビューを楽しみにしています。
3年前から村上春樹を本格的に読むようになりました。
ご紹介の本は持っていませんが、 「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は読みました。そして「ねじまき鳥クロニクル」も。
短編の方は、不思議な世界で僕の感覚がついていけなかったという感想を持ちました。
その後に読んだ長編はかなり楽しめました。
今後の村上作品のプレビューを楽しみにしています。
Re: 村上春樹 ; よんちゃんさん
よんちゃんさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
乙山も村上春樹を読み始めたのは遅いほうだと思います。
『ノルウェイの森』が話題になった頃はどうしても読む気になれず、
後になって読むようになったわけです。
仰るように「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は不可思議なことが多く、
話としてはどうなのかなあ、と首をかしげていました。
今思うと、レイモンド・カーヴァーの影響もあるのかな、と思います。
これは「女たち」を登場させる着想ではなく、
エンディングの終わり方がそのように思わせる個所です。
今後ともよろしくお願いします。
乙山も村上春樹を読み始めたのは遅いほうだと思います。
『ノルウェイの森』が話題になった頃はどうしても読む気になれず、
後になって読むようになったわけです。
仰るように「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は不可思議なことが多く、
話としてはどうなのかなあ、と首をかしげていました。
今思うと、レイモンド・カーヴァーの影響もあるのかな、と思います。
これは「女たち」を登場させる着想ではなく、
エンディングの終わり方がそのように思わせる個所です。
今後ともよろしくお願いします。