夏目漱石 「坊っちゃん」

夏目漱石 「坊っちゃん」 (1906年『ホトトギス』に掲載)

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さてお待ちかね、ってだれも待ってなんぞいなかったのは重々承知しつつご存知「坊っちゃん」である。それまで読んでいた漱石の初期作品群に比べると格段に読みやすく、なぜか、ああやっと夏目漱石になった、などと単純に感じてしまうのは私(乙山)だけだろうか。以前岩波少年文庫版で読んだこともあるせいか、すんなり読むことができた。

東京の高校を卒業した若い教師が松山の中学校に新任教師として赴任するわけだが、お馴染みの登場人物たちが面白い。フロックコートを着て理想的言辞ばかり述べ立てる校長の「狸」、なぜか年中赤いフランネルシャツばかり着ている教頭の「赤シャツ」、その教頭にくっついて行動する幇間みたいな「野だいこ」、がさつで荒っぽいけれど生徒の人望が厚い「山嵐」、そしておとなしく君子のような「うらなり」と彼の許婚である(あった)「マドンナ」。

あまりにわかりやすい(ゆえに親しみやすい)類型的な人物造形に、明快で余計なところがなく結末に向かって進む筋書きが相まって、漱石の中でも非常に人気の高い作品となっているのではないかと思う。単純で裏表のない性格の若い主人公が、大人社会の矛盾に首を傾げつつも衝突は避けられず、結局数カ月で辞任してしまうという話で、初めて読んだときはそのあっけなさに「えっ」と思ったものだ。

したたかに計略をめぐらす教頭との対決が話の中心になっているので、生徒たちと主人公の交流についてはあっさり捨象されているところがあるけれど、主人公がてんぷら蕎麦を四杯平らげ(いくらなんでも食べ過ぎでは?)て「天麩羅先生」と呼ばれたり、団子を食っているところを見つかって「団子」と呼ばれたりするところは愛嬌があって好きだ。生徒たちは彼らなりの仕方で新任教師に懐いていたのだと思うが、主人公もまだ若く包容力がない。

主人公の一人称で書かれているところがポイントで、彼の思うところがそのまま読者に伝わってくるし、「坊っちゃん」自体が軽いべらんめえ調(?)で進んでいくのが心地よく、読者は知らぬ間に主人公に感情移入できる(というかしてしまう)ようになっている。それは例えば主人公が中学校の教師たちと初めて顔を合わす個所である。少し引いておきましょう。

それからおれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。何がアハハハだ。そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。……(中略)……画学の教師は全く芸人風だ。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、お国はどちらでげす、え? 東京? そりゃ嬉しい、お仲間が出来て……私もこれで江戸っ子ですと云った。こんなのが江戸っ子なら江戸には生れたくないもんだと心中に考えた。(ちくま文庫版『夏目漱石全集 2』より)

漱石の松山中学校での教師生活は「坊っちゃん」のようなものではなくてわりと平穏に過ぎたようであるが、熊本の五高、帝大の一高、明治大学、帝大英文科講師と渡り歩いた漱石の眼にはさながら「坊っちゃん」のような世界も映ったのではないかと想像する。「坊っちゃん」が社会の縮図を戯画化したもの、というのは言い過ぎかもしれないが、実際に赤シャツや野だいこのような人物がうようよしているのも本当なのだ。

大人社会に矛盾を感じ、それに対決するのだが転覆させることはできず、結局「辞任」という形で主人公は中学校を去り、赤シャツ教頭は何の処分も受けることがなかったわけで、坊ちゃんの反逆は見事に敗北してしまう。これは後に世間の因習と対決する「それから」にも受け継がれていて、道ならぬ恋を選んだ大助と三千代は世間に後ろ指を指されるようにひっそりと暮らすことになり、その行末は「門」に書かれている。

「じきに冬が来るさ」と結ばれる「門」の終末部から伺えるように、世間の因習に対決するものの、主人公はそれを転覆させることはできなかった。だが、いかなる犠牲を払っても自分の感情にしたがって生きることを決意した主人公に、読者はある種のカタルシスを感じるのであり、そこにこそ、「それから」の最大の魅力があるのだろうし、「坊っちゃん」もそうなのだと思う。

議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。(同書より)

今これを読むと主人公の若さに苦笑して、そんなふうにしちゃあいけないな、などと大人の顔でつぶやくのだが、本当はそんなふうにしちゃあいけない、のではなく、到底そんなふうにはできない、のである。生活というものがあるからだ。それは結局、「坊っちゃん」的に言うと、金を得るために様々な矛盾を受け入れないといけないということなのだ。

たとえばそれは、狸や赤シャツ、野だいこのような人間の下で駒のように好きなように動かされることであり、あるいはいつの間にか彼らのような立場に置かれてしまうことなのかもしれぬ。だからこそ私たちは敗れ去る正義の、あるいはその痕跡がどこかに残っているかもしれぬ無垢の、ほろ苦い敗北のバラードをときに聴きたくなるのではないだろうか。


【付記】
● ようやくちくま文庫版『夏目漱石全集 2』を読み終えました。次はいよいよ「猫」に突入します。これがまた、長いんですよねえ……

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No title

僕の蔵書の中に、漱石の二冊の翻訳本があります。
一冊が「坊ちゃん」で、もう一冊が「吾輩は猫である」です。
え?何語かって
沖縄弁です。
記憶をたどると
「わんねーまやーぬーやる」
これ、吾輩は猫であるです。
英語より難しいです。

Re: 根岸冬生さん

根岸さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
えっ、「猫」の沖縄弁の本が実在するのですか?
どうも本当のこととは思えないのですが、
根岸さんが仰るのだから実在するに違いない。

と言っても読めないでしょうねえ。
しかし沖縄弁を伝えていく、ということからすると、
たいへん重要な本ではないかと思います。

No title

記事を拝見しました。

帝大講師時代の漱石は、色々と反骨精神を発揮していたという話を聞いた事があります。
明治の人というよりは、絵に描いたような江戸の人だったようですね。

因みに乙山先生のように全集を読んだりしていないのですが、登場する女性たちはみな似たようなタイプであるところも興味深いです。

一度じっくりと本に向き合ってみたいとは思うのですが、なかなか…

Re: Noriさん

Noriさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
「坊っちゃん」は漱石の創作の部分が多い小説と思いますが、
モデルとして自分自身を投影していることもあるのではないかと思います。
江戸っ子だったんですね。べらんめえ調が似合う人でもあります。

本を読む時間はなかなかありませんね。とくにフルタイムで働いている人はそうでしょう。
通勤電車の中で本を開き、読み継いでいることも多いのです。
実際、夏目漱石以外のものを今はほとんど読めていないんです。

No title

 やっと『坊ちゃん』にたどり着きましたね。さぞホッとされたこと
でしょう(笑)。

 たしかに登場人物は類型的なんですけど、現実にいますよね
え、似た人は。ただひとつ、マドンナの姿だけがボンヤリしたまま
なのはふしぎといえばふしぎです。美人らしいんだけど、どういう
女性なのか結局よくわからない(笑)。たぶんそちらに話を発展
させてしまうと、この痛快な小説がまるで別物になってしまうから
避けたのかもしれませんね。

 ぼくのうんと乱暴な感想をいいますと、漱石の作品の中で(シン
プルな意味で)おもしろいのは順に『文学評論』、『猫』そして『坊っ
ちゃん』なんです。あとはいわゆる「おもしろい」とはちょっとちが
うような気がしています。そういえば小泉信三もたしか『文学評論』
を断然第一位に推していたような記憶があります(ちがったらごめ
んなさい)。

No title

やっと私にもわかるような作品になってくれた(笑)

一つ上の薄氷堂さんがコメントに

>美人らしいんだけど、どういう女性なのか結局よくわからない

とありますが・・・えへん・・・国文学部出身の私が大学在学中に学びえた知識をご披露するならば・・・

・・・ようは漱石が女性の描写がどうも苦手だったらしいこと・・・

ごくごく、有名な作品(もちろん漱石のですよ)しか読んだことのない私が言うのもなんですが、漱石のことを専門にしている先生はもちろんのこと、漱石好きの友人たちすべてがそう言っていたのですから・・・私が言っているのではないから間違いはありません(笑)。

Re: 薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
いやあ長かったですよ。初期の作品集を読むのは骨が折れました。
「坊っちゃん」は読みやすいったらありゃあしませんね。

そうそう、仰るように「マドンナ」の部分は名前が出てくるだけで、
ほとんど描写がありません。ぼんやりとした印象が残るのはそのせいでしょう。
思い切って書かないようにしたのか、うまく書けなかったのか、
それは推測の域を出ませんので何とも言えません。

Re: gatayanさん

gatayanさん、こんにちは! コメントありがとうございます。

> ・・・ようは漱石が女性の描写がどうも苦手だったらしいこと・・・

なるほど、たしかにそう言われてみると、わかるような気がします。
たとえば「三四郎」の美禰子はなんだか現実離れしていて、幽玄とでも言うべき雰囲気。
つまり肉体がないというか、感じさせないんですよね。

「彼岸過迄」の千代子あたりまでは、どうもその傾向があるように思えます。
男が女を書くとき、つい理想化して書いてしまうのかもしれません。
男にはそうしないではいられない部分があって、そのままを書いてしまうと、
身も蓋もないことになってしまうような気がします。

No title

これは読んだ記憶があるけど、中身の記憶が・・・(;^_^A アセアセ…
若かりし頃は、人として、共感できるものが随所にあったような気がします。
大人になって、今一度読み直してみたいと思います。
別の感じ方、見方があるのでしょうね。

Re: かえるママ21さん

かえるママさん、こんにちは! コメントありがとうございます。
だれしも、ということはなくて、夏目漱石を一つも読んだことがない、
そういう人はけっこういるんじゃないかって思うんです。

中学、高校の教科書に載っていた「猫」とか「それから」を見て、
読んだつもりになっている人が、わりといると思いますよ。
もし読むなら図書館で岩波少年文庫版がありますので、それが便利でしょう。
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