夏目漱石 「薤露行」

夏目漱石 「薤露行」(1905年、『中央公論』に掲載))

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夏目漱石の初期作品の中でも最も読みにくいものの一、二を争うのが「幻影の盾」と「薤露行」(かいろこう)ではないかと思う。おそらく、どちらも日本では馴染みがあまりないと思われる「アーサー王と円卓の騎士」を扱ったもので、しかも文体は文語調で書かれているためではないかと思う。今回はその「薤露行」に挑んでみた。

そもそも「アーサー王と円卓の騎士」を扱ったフィクションが夏目漱石以外になく、日本で制作された映画、あるいは漫画やアニメーションの類にもそのテーマを見たことが私(乙山)にはない。大学やカルチャー講座で「イギリス文学史」などと題目の付いた講義を受講するとか、英文科でイギリスの中世を専攻したということでもなければ、日常では触れることすらないのではないかと思う。

音楽好きの人ならリヒャルト・ワーグナーのオペラで『パルジファル』や『トリスタンとイゾルデ』、あるいは『ローエングリン』などご存知かもしれないが、彼らが円卓の騎士(ローエングリンはパルジファルの息子)である。どういうわけかアーサー王自身より円卓の騎士のメンバーを取り上げたものも多く、漱石の「薤露行」もランスロット卿を主人公にしている。

何の予備知識もないまま読んでしまうと本当にわけがわからなくなってしまうので、ウィキペディアなどを利用して知識を仕入れておきましたよ。こうやって正直に書いておかないと、にわか仕込みの付け焼刃をうのみにされてしまうではないか。実際、アーサー王と円卓の騎士に詳しい人なんて、英文科の一部の先生かそれを専攻した人、あるいは何かの縁でそれに興味を持って個人的にのめり込んだ人くらいしかいないんじゃないかと思う。

さて円卓の騎士のメンバーの中でもランスロットは武術に優れ、彼の右に出る者はいないほどだという。また騎士道を守る生き方も、円卓の騎士の中でも並ぶものがいなかったとされるほどの人で、そんなランスロットを慕う女性も数多くいたようだ。なかでもアーサー王妃グィネヴィア(漱石の作中ではギニヴィア)との不義の恋、アストラット(シャロット)のエレイン姫の恋慕が名高い。

「薤露行」の前書きで自身が書いているように、漱石はトーマス・マロリーの『アーサー王の死』やアルフレッド・テニスンの『国王牧歌』にあたって、それらをもとに漱石の隠れ主題ともいえる「愛してはならぬ人を愛してしまった者」をランスロットとグィネヴィアの不義の恋に描き出しているが、メインは一応エレイン姫の「叶わぬ想い」になるのであろうか。なお「薤露行」というのは葬儀の歌ということだそうだ。

北の方面で馬上武術の試合があるのでそれに参加するランスロットはグィネヴィアとしばしの別れを告げ、途中で立ち寄ったシャロットの城でランスロットはエレインから紅色の袖を贈られ、それを兜に巻いて試合に臨む。試合が終わり、皆それぞれに帰って行くのだが、ランスロットはどういうわけか姿を見せない。彼を待つグィネヴィアとアーサー王のやりとりが秀逸である。少し引いておきましょう。

 ……ギニヴィアはまた口を開く。
「後れていくものは遅れて帰る掟か」と云い添えて片頬に笑う。女の笑うときは危うい。「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏やかに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
 恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐に刺されし痛を受けて、すわやと躍り上がる。耳の裏には颯と音して熱き血を注す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿し毛に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女と云うと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾日を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」(ちくま文庫版『夏目漱石全集2』「薤露行」第四章「罪」より)

これなんかもう、『アンナ・カレーニナ』で夫のカレーニンが横にいるにもかかわらず、ヴロンスキーが落馬した瞬間、立ち上がらずには居られなかったアンナを思い出してしまうような場面ではないか。道ならぬ恋、を後に書いた漱石も、この当時は「猫」のような高みの見物的作品(余裕派?)が表看板だったためか、恋の話を書くときにはどうしても照れのようなものが出てしまったのだろうか、硬い文語調の文体もその照れ隠しだったのではないか、などと勝手に想像している。


【付記】
● 「薤露行」は「幻影の盾」以上に恋を描き切ったものだと言えましょう。この後の「坊っちゃん」でも「三四郎」でもまだ淡いかたちでしか書かれない「恋」がここで思い切り書かれているのです。道ならぬ不義の恋、という重要な主題も表れており、読みにくいけれど本当に書きたかったのはこれなのかな、と思わせるものがあります。

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待てば薤露の日和あり

 実はこの日のくることを恐れていました(笑)。乙山先生には感服のほかありません。

 しかたがないから(漱石先生の手前、そういっちゃいけませんね)、ざっとですけど読みましたよ。

 漱石がよりどころとしたマロリーの『アーサー物語』というのは、
『アーサーの死(Le morte Darthur)』だと思いますが、ネッ
ト検索してちらっとのぞいてみたら、恐ろしく長い小説なんです
よ。原稿は残っていないそうですが、1485年にキャクストンが
活版印刷したというから、印刷物としては最古の部類に属する
ようです。

 なにしろ古い文章ですからわかりにくく、たしかに専門家でな
ければ読もうなどとは思わないでしょう。漱石先生はこれを読破
したんだからえらいですねえ、さすがです。

 ぼくなどには歯が立ちませんけど、漱石の文章の出だしに該
当するほんの一節だけ。

  さて王が出発すると、王妃はサー・ランスロットを
 呼んでこういった。王とともに行かず、ここに残った
 からには、あなたはひどく咎められましょう。あなた
 や私の敵どもがなんというとお思いか? サー・ラ
 ンスロットがあとに残り、私も残るのは、ともに楽しみ
 をほしいままにするつもり、というのではありませぬ
 か。きっとそういうことは疑いありませぬぞ、と王妃
 はサー・ランスロットにいった。

 これだけなんですよ。あとは全部漱石先生の作文。いかに原作
が「小説として見ると散漫の譏は免れぬ」とはいえ、正直いって、
いささか装飾過多ではないかという気がしないでもありません。目
がチラチラして、筋を追うのがつらいですから。

 原文では、このあとランスロットは王妃の言に従い、翌朝早く食
事をすませて出立し、その日は美しき乙女エレーンの住むアスト
ラットに泊まります。もちろん描写はいたってシンプルです。

 どうもわからないのが「二 鏡」の部分で、まずこの一編のうちに
占める位置がよく理解できません。またシャロットの女なるものが
何者なのか、調べるには少し時間がかかりそうです。いまのところ、
とても15世紀文学にまでは手が回らず、勉強も足りないので、あ
とは優秀な専門家にお任せしましょう。

 それにしてもこちらのブログは勉強になりますね。

No title

 気になったのでもう少しだけ調べてみたら、シャロットの女というの
はテニソンの "The Lady of Shalott" あたりから引っぱっ
てきたみたいですね。泥沼にはまるのはいやなので、いまは追求し
ませんけれど。

 だとすればアストラットのエレーン(Elaine)を指すのかも知れま
せんが、ちょっとあとのほうのイメージが食いちがうような気もします
から、「二 鏡」の部分はいささか唐突に思えるのですが……

 いずれにせよ、マロリー+テニソンの予備知識がなければ理解し
にくいのでは、日本のふつうの読者にとってはいささか無理がある
ことはまちがいありません。

Re: 薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
まとめてお返し致します段、失礼いたします。

>  どうもわからないのが「二 鏡」の部分で、まずこの一編のうちに
> 占める位置がよく理解できません。またシャロットの女なるものが
> 何者なのか、調べるには少し時間がかかりそうです。

そうなんですよ。仰る通り、「二 鏡」の章は「シャロットの女」が出てきて、
彼女が一人でいる、とありますね。ふつうに読むと、シャロットの女と、
次に出てくるエレーンとは別人物であると思ってしまいます。

なので乙山も何度か読み直したのですが、どうも「二 鏡」の章だけが、
他とつながっていないような気がして仕方がないのです。
ちょっと調べてみたら、シャロットの女=エレーンとする意見もあるようでして……

>  気になったのでもう少しだけ調べてみたら、シャロットの女というの
> はテニソンの "The Lady of Shalott" あたりから引っぱっ
> てきたみたいですね。

さすが慧眼の薄氷堂さん、恐れ入ります。
テニスン卿は『国王牧歌』の前に"The Lady of Shalott" を書いており、
どうやらそれにまちがいないようです。

直接に外の世界を見ると死ぬ、という呪いをかけられたシャロット姫は、
城の中で鏡を通してしか外の世界を見ることができず、
タペストリーを織って日々を過ごしていた、というような内容で、
まさに「二 鏡」で描かれた「シャロットの女」のことですね。

だから「薤露行」ではランスロットに思いを寄せる三人の女性が
描かれている、というのがどうやら正解のようで、
薄氷堂さんのおかげですっきりしましたよ!

思えば1905年ごろと言えばテレビもラジオもなく、
活字が最大かつ最強のメディアであったわけで、
現在より当時の人たちの読書たるや相当なもののはずですが、
それでも「薤露行」がどれだけきちんと理解されたか、
いささか疑問とせざるをえません。

No title

 これ、もう少し考えてみる必要がありそうですね。

 最後のくだりでは、エレーン(漱石の読みに従っておきます)の屍
が流れ着き、ギニヴィアはエレーンが右手に握った文を取り上げ、
封を切って読みます。

  悲しき声は又水を渡りて、「……うつくしき……恋、色やうつろ
 う」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。

というんですが、その歌は「二 鏡」でシャロットの女が歌った歌の文
句です。だとすれば、シャロットの女=エレーンと考えるのがふつう
でしょう。

 しかしシャロットの女は高い塔のうちにあって、たったひとり孤独に
暮らしており、「眼深く額広く、唇さえも女には似で薄からず」という
容貌からしても、親兄弟といっしょに暮らす「可憐なるエレーン」とは
明らかに別人ですよね。

 ウィキペディアで The Lady of Shalott を調べると、テニソ
ンは「アストラットのエレーンの伝説」を下敷きにはしているものの、
どうも内容はずいぶんちがうようです。確かめるためにはもとの伝説
(を扱った作品)とテニソンの作品を比較しなくてはいけませんが、
たぶんテニソンの詩では、もともとのエレーンはすっかり別人になっ
てしまったのではないかという気がします。

 そんなことは当然百も承知していたはずの漱石が、なぜ作品をこ
んな構成にしたのかはよくわかりませんが、もちろん意図はあった
はずです。(どなたか論文を書いているのかもしれませんが)それを
解明するには、かなり時間がかかるんじゃないでしょうか。漱石先生
もほんとに迷惑な作品を書いてくれたものです。

 ぼくは青春を浪費したくないからご免こうむりますが(笑)、乙山先
生、いかがですか? 解決するころにはおでんがすっかり煮詰まっ
てしまいそうですけど。

Re: 薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

>  最後のくだりでは、エレーン(漱石の読みに従っておきます)の屍
> が流れ着き、ギニヴィアはエレーンが右手に握った文を取り上げ、
> 封を切って読みます。
>
>   悲しき声は又水を渡りて、「……うつくしき……恋、色やうつろ
>  う」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
>
> というんですが、その歌は「二 鏡」でシャロットの女が歌った歌の文
> 句です。だとすれば、シャロットの女=エレーンと考えるのがふつう
> でしょう。

薄氷堂さんの仰る最後の「だとすれば……」の論理がちょっとわかりにくいです。
この「悲しき声」はどこからともなく聞こえてくる声で、少し前にも出てきますね。
以下は漱石の引用です。

シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の寂寞を破って、
動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、……うつつ……に住めば……」絶えたる音は後を引いて、
引きたるはまたしばらくに絶えんとす。聞くものは死せるエレーンと、艫に坐る翁のみ。

悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって
波うたせたる時のごとくに人々の耳を貫く。


この声はシャロットの女のものであるかどうかはわかりませんが、
どこからともなく聞こえてくるものなので、これをもってシャロットの女=エレーンである、
とするのはいささか唐突に思えてなりませんが、いかがでしょう。
乙山は最後のくだり、そんなに引っ掛からなかったんですけどね……

No title

 失礼いたしました。ぼくの早とちりで、まったくご指摘のとおりです。

 少し詳しく書いたものを投稿したのですが、何度トライしても「不正
投稿」になってしまいます。中身がいいかげんだとはねられるのかも
しれませんね(笑)。

 取り急ぎおわびまで。

Re: 薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんにちは!
了解しました。まあ早とちりとか勘違いは、
じつは乙山にこそふさわしいものなんですよ!
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