夏目漱石 「幻影の盾」

夏目漱石 「幻影の盾」 (1905年『ホトトギス』に掲載)

SosekiNatsume_CompleteWorks_Vol2_Shield.jpg
夏目漱石といえば「猫」「坊っちゃん」「三四郎」あたりから読み始める人が多く、初期の短編(掌編)があまり顧みられないことが多いのではないだろうかと想像している。じつは私(乙山)も漱石を読むにあたって「三四郎」からスタートし、発表年代順に「行人」まで行ったところで初期作品を読んでいなかったことに思い至り、「倫敦塔」やそのほかの作品を現在読んでいるところである。

しかしなんといいますか、読みにくいですなあ。ベッドと机・椅子しかない部屋に監禁状態にされた上、読む本はこれしかない、などと与えられたなら読むのかもしれないが、そうでもない限り、まあ漱石の初期作品は自分から進んで読む気にはなれないだろう。それくらい読みにくいものが多いと感じた。

中でも「幻影(まぼろし)の盾」と「薤露行(かいろこう」は難渋なことこの上ない双璧をなすものではないかと思う。いずれも中世の騎士(アーサー王と円卓の騎士など)を取り上げているのだが、今回は「幻影の盾」にたいへん長い時間がかかってしまった。しっかり読んだというよりは、とりあえず文字を全部見た、というレベルであることを正直に書いておこうと思う。

仮名遣いは現代仮名遣いに変更されているとはいえ、文体が文語調になっていることも読みにくいことの一因だけれど、その内容がまたわかりにくいのだ。現実と幻想(白昼夢)が入り混じったものだと思うが、うっかり読むといったい何が起きているのかさえつかみにくい。冒頭部分を少し引いておきましょうか。

 遠き世の物語である。バロンと名乗るものの城を構え濠を環らして、人を屠り天に驕れる昔に帰れ。今代の話しではない。
 いつの頃とも知らぬ。ただアーサー大王の御代とのみ言い伝えたる世に、ブレトンの一士人がブレトンの一女子に懸想した事がある。その頃の恋はあだには出来ぬ。思う人の唇に燃ゆる情けの息を吹くためには、吾(わが)肱をも折らねばならぬ、吾頚をも挫かねばならぬ、時としては吾血潮さえ容赦もなく流さねばならなかった。懸想されたるブレトンの女は懸想せるブレトンの男に向って云う、君が恋、叶えんとならば、残りなく円卓の勇士を倒して、われを世に類いなき美しき女と名乗りたまえ、アーサーの養える名高き鷹を獲て吾もとに送り届けたまえと、男心得たりと腰に帯びたる長き剣に盟(ちか)えば、天上天下に吾志を妨ぐるものなく、遂に仙姫の援(たすけ)を得てことごとく女の言うところを果す。鷹の足を纏(まと)える細き金の鎖の端に結びつけたる羊皮紙を読めば、三十一カ条の愛に関する法章であった。所謂「愛の庁」の憲法とはこれである。……盾の話しはこの憲法の盛(さかん)に行われた時代に起った事と思え。(ちくま文庫版『夏目漱石全集2』より)

「夏目漱石 幻影の盾」と入力して検索すればインターネット図書館「青空文庫」でも読むことができるので、興味のある方はのぞいてみてください。引用部分はいくつか平仮名変換されているが、青空文庫のほうは漢字が多く残っているようだ。ただしていねいにルビが施されているので、読むにはそれほど苦痛を感じない(?)と思う。難点をいえば、真っ白な背景がまぶし過ぎて、長時間読むには苦痛なんですね。もう少し輝度を下げた背景、たとえばクリーム色なんかに出来ないものかとつくづく思う。

漱石による冒頭の前置きでは「一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲(ひょうびょう)たる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た」(同書)とある。「目に見えぬ怪力」とはおそらく幻影の盾によるものであろう。だが「一心不乱」とは何に対する一心不乱なのか。これも見えにくいのだが誤解をおそれず言ってみると「恋」に対する一心不乱なのではないかと想像する。

戦を控えた騎士ウィリアムはクララという女性と恋愛関係にあるが、彼女はどうやらウィリアムの軍と敵対関係にある家の子女のようである。自分はこの戦で武勇を挙げねばならぬ、しかし勝てばクララとの恋は成就できないという厄介な板挟み状態に陥っている(?)ようである。

だから大変見えにくいというかつかみにくいのではあるけれど、これは「恋の話」なのであって、当時並行して発表されていた『猫』によって「恋愛を書かない小説家」として認識されていた漱石のイメージとはずいぶん異なったものだと言える。後に「愛してはいけない人を恋慕してしまう」小説をたくさん書いた漱石の原型ともいえる主題がここにすでに表れているわけで、その意味で「幻影の盾」は非常に重要な作品ではないかと思う。


【付記】
● いやあ本当に読みにくいですね。半ば意地になっておりまして、そうでなければ「幻影の盾」を読むことはなかったろうと思います。

人気ブログランキングへ blogram投票ボタン
関連記事
スポンサーサイト

tag : 夏目漱石

コメントの投稿

非公開コメント

No title

 いやはや、お世辞抜きで感心いたしました。昔々途中まで読んで
放り出した覚えはあるんですが(笑)、21世紀に読破した方がおい
でとは!

 たとえば露伴の『運命』などは、漢文調なのに流れるような名文で、
すらすら読めますが、こちらはずいぶんゴツゴツしています。あちこち
岩に当たりながら谷川を下っているような感じがします。文語調であ
るような、ところどころそうではないような、一種実験的な文章なのかも
しれませんね。

 題材が日本人にはピンとこない、同情が湧きにくいというのも、読み
にくい理由のひとつかもしれません。引用部分を読んだだけでも、男
も男なら女も女だ、なんだかバカバカしい話を大おまじめに聞かされ
ている、というような気になりますから(なりませんか?)、どうも感情移
入しにくいですよね。漱石先生の意図、劣等生のぼくにはわかりかね
ます。

 正直いって、いまチャレンジしようという気にはなれない……と思うにつ
け、乙山さんの気力には脱帽です。

Re:薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんばんは! コメントありがとうございます。
正直言って、しっかり読んだわけではなくて、とりあえず
最後まで文字を眺め通してみた、という感じでしょうか。

思えば漱石の舞台であった新聞という媒体ではなくて、発行部数も新聞に比べると
限られた文芸雑誌なわけですから、漱石もある意味好き勝手ができた、
ということかもしれません。新聞にこの文章は乗らないでしょう?

まあ、とにかく読みにくいこと限りなし、の厄介な代物です。
なので「夢十夜」にならんで国文科の学士または修士論文向け題材かもしれませんね。
ひょっとしたらもう一度読んでみることがあるかも(?)とか思いますが、
その可能性は極めて低いのではないかと思います。


管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

幻影の盾ですか・・・

学生時分、近代文学の特殊講義が夏目漱石の「門」を1年かけて読むというもので・・・
「門」という作品の理解のためには、当然、「門」だけを読んでいればいいというものではなく、図書館あたりの全集を競うように借りて目を通しましたが・・・この作品はその名を見ていただけで・・・・

こんなところに目をお付けになるなんて恐れ入りました・・・

Re:gatayanさん

gatayanさん、こんばんは! コメントありがとうございます。
いやいや、これと目星をつけているのではなく、
夏目漱石全集をとりあえず読んでいると、当たってしまった、
というべきなのです!

だから避けようがないという感じで「幻影の盾」へ突入!
読んでみると、わけがわからん、なんじゃこりゃ? という感じでした。
一般読者として、読まんだろうこれは、という感じでしたね。

文楽にしてもそうですが、ぱっと見てわかる、というものではないのでしょう。
西洋中世の騎士道とか、アーサー王関係の諸知識など、
ある程度何かを習得したものでないと楽しめないものかもしれません。
これはどの分野にも言えるのではないかと思います。

それらがまったくない状態で初めて体験して、楽しめる、というのは
よほどのことです。音楽(と絵画)のある分野しか、その理屈は通じないのではないか。
そんなふうに思っております。

Re: 鍵コメントさんへ

属性はそぎ落とされるものだと思っていたのですが。
引用部分は「これが引用だ」とわかるように色を付けたのですが、
それはあくまでPC上でモニターした結果のことでした。
スマートフォンなどモバイルデバイスでどう見えるのか想定していなかったのです。
ううむ……属性はそぎ落とされないのですかね。
プロフィール

只野乙山

Author:只野乙山

⚫︎ できれば「只野乙山=ただのおつざん」とお読みくだされば、と思います。

⚫︎ 文字中心のウェブログ。ほとんど一話完結で、どの記事をご覧になっても楽しめ(?)ます。文字数だけなら一冊の本に匹敵(凌駕?)するほどありますので、ごゆっくりどうぞ。

⚫︎ 下の「全ての記事を表示する」をクリックすると、全記事のタイトル一覧が出ますので過去記事を参照することができます。

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新記事
最新コメント

openclose

最新トラックバック
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

アーカイヴ

2017/11 (6)

2017/10 (9)

2017/09 (9)

2017/08 (8)

2017/07 (9)

2017/06 (9)

2017/05 (9)

2017/04 (8)

2017/03 (9)

2017/02 (4)

2017/01 (1)

2016/06 (1)

2016/05 (13)

2016/04 (13)

2016/03 (20)

2016/02 (10)

2016/01 (11)

2015/12 (10)

2015/11 (10)

2015/10 (11)

2015/09 (13)

2015/08 (10)

2015/07 (11)

2015/06 (10)

2015/05 (10)

2015/04 (10)

2015/03 (11)

2015/02 (9)

2015/01 (11)

2014/12 (9)

2014/11 (10)

2014/10 (11)

2014/09 (10)

2014/08 (10)

2014/07 (10)

2014/06 (10)

2014/05 (11)

2014/04 (10)

2014/03 (10)

2014/02 (9)

2014/01 (11)

2013/12 (9)

2013/11 (10)

2013/10 (10)

2013/09 (10)

2013/08 (11)

2013/07 (10)

2013/06 (10)

2013/05 (10)

2013/04 (10)

2013/03 (11)

2013/02 (9)

2013/01 (11)

2012/12 (9)

2012/11 (10)

2012/10 (11)

2012/09 (10)

2012/08 (10)

2012/07 (10)

2012/06 (10)

2012/05 (11)

2012/04 (10)

2012/03 (10)

2012/02 (10)

2012/01 (9)

2011/12 (9)

2011/11 (10)

2011/10 (10)

2011/09 (10)

2011/08 (10)

2011/07 (9)

2011/06 (9)

2011/05 (10)

2011/04 (8)

2011/03 (8)

2011/02 (12)

2011/01 (12)

2010/12 (12)

2010/11 (13)

2010/10 (15)

2010/09 (15)

2010/08 (14)

2010/07 (16)

2010/06 (17)

2010/05 (21)

2010/04 (18)

2010/03 (20)

2010/02 (23)

2010/01 (27)

2009/12 (27)

2009/11 (27)

2009/10 (26)

2009/09 (24)

2009/08 (19)

2009/07 (21)

2009/06 (30)

2009/05 (26)