夏目漱石 「思い出す事など」

夏目漱石「思い出す事など」(1910年10月29日~翌年2月20日まで朝日新聞に掲載)

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夏目漱石は「門」執筆の後、胃腸病院に入院し、退院後の療養として伊豆の修善寺に滞在するが、そこで大吐血を起こし命が危ぶまれる状態にまでなった。それを持ち越して帰京する段で同病院に再入院している。その間のことを書き綴ったのが「思い出す事など」であり、明治43年10月から翌2月まで新聞紙上に掲載された。

「満韓ところどころ」のように目的を持って活動的に書かれたものではなく、実生活での様々な拘束から解き放された境遇で、のんびりと自由な心持ちのもとに書かれた随筆だと言える。心と身体の休暇を心行くまで楽しむ、とまではいかないにしても、嵐が去って風の凪いだときに射す陽光の中でたゆたう感じ、とでも言えばいいのだろうか。そうした心の余裕からか、文章には漢詩や俳句が添えられている。

私(乙山)も含めて多くの人は、ふだん何らかの拘束の元で、ある目的をもって行動し、ときには何かに追われるようにしてつとめを果たしているものであり、なかなか心の平安を得ることができぬのではないか。その一方、休暇によってそのような拘束から解放されるが否や、今度は退屈が忍び寄ってきて自由なはずの自分が、たんなる空虚な自分と化してしまいかねない。心の平安はますます遠のくばかりである。

余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾けてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹渺(ひょうびょう)とでも形容してよい気分であった。(ちくま文庫版『夏目漱石全集7』「思い出す事など」20節)

こうした部分に惹かれるのは、おそらく私自身がそうした心境をなかなか持つことができずにいるからではないかと思う。どうしてそうなのか、じっくり考えて有意義で満ち足りた時間を持ちたいものだとかねがね思ってはいるのだが、修行不足のせいかなかなか思うようにはできずにいる。そんな自分の心を訪ねてみるのにも、「思い出す事など」はいいきっかけになるかもしれない。

ところで夏目漱石は食にかんすることをあまり書かない人だ、などと以前記事に書いたことがあるけれど、これは私の勘違いだったようで、どうも漱石は胃病持ちでありながらけっこう食いしん坊でもあるようだ。胃のせいで思うように食べられない、というのが何よりも辛かったのが漱石ではないのか、そんなことを思わせる部分を引いておきましょう。

 やがて粥を許された。その旨さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君はわざわざ妻(さい)の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終食物の話ばかりしていておかしいと告げた。
 腸に春滴るや粥の味
 (同書、26節)

なんとまあ正直な、そこまで書かなくてもいいでしょうに、と言いたくなるほどである。「思い出す事など」は命が危ない状態まで行った経験を振り返ったものだから、全体の調子は静かな感じで占められているが、こういう部分にはどこかユーモラスな感じも漂っている。この後の漱石の創作にはユーモラスな部分が少なくなっていくようだが、本来はべらんめえ調で滑稽小説を書くのも好きな人なんじゃないかと勝手に思っている。


【付記】
● なんだかもう「夏目漱石を読む」という企画を実行しているような感じになってきました。えっ、そうじゃなかったのか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、当ウェブログで正式に実行されている企画は「日本のウィスキーを飲む」と「ちゃんぽん調査隊」の二つだけなんです。ま、それとてあってないような企画ですけど、いよいよ夏目漱石の後期作品群に入ろうとしています。その前に前期作品に戻ろうかな……なんてね。

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No title

あはは、今回は一番「付記」がウケました。
そうだったんですね。
「ちゃんぽん調査隊」の任務をサボタージュしてても、誰もとがめませんから、ご安心下さいませ。(笑)(o^^o)

夏目漱石だけではないでしょうが、入院してると、何と言っても食事が楽しみなんですよね。
あとは長い時間をどうすごすのか・・・
今でこそ、テレビや、パソコンなどで楽しめるのでしょうが、昔ならば、本を読むにも、長時間寝たままだと、目も疲れるでしょうから、夏目漱石もますます食事を楽しみに一日すごしてのではないかな・・・と想像してしまいます。

Re:かえるママ21さん

かえるママさん、こんばんは! コメントありがとうございます。
そうですか、そんなに「付記」が?
これはね、別になくてもいいようなものなのですが、
ここに乙山の本音がぽろっと出ているかもしれません。

「腹八分目作戦」とか「さかな作戦」はあくまで個人的な
実行項目でして、それを副産物としてウェブログに上げているだけなんです。
しかし、「ちゃんぽん調査隊」とか「日本のウィスキーを飲む」は
まったく別物でして、これは拙ウェブログを挙げて、取り組んでいるもの。

入院している人を取り上げて、食いしん坊と断定するのはちょっと酷でしたよね。
たしかに長い時間を過ごさないといけない人にとって、
楽しみは何か、そういうところに考えが及ばなかったのは
いかにも乙山的なうっかりが出てしまっています。

わかっているようでわかっていなかった、それが乙山でしたね。
ありがとうございます!

No title

僕は時々、ブログネタがなくなると
今日は何食った、昨日何食ったというネタばかりになってしまいます。
まあ、今後は、漱石先生に倣ってということにしておきましょう。



あ、そうか。食い物ネタの後には俳句が必要ですね。うふふ。

Re:根岸冬生さん

根岸さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
いや本当、話の種がなくなると酒とか食べ物が救ってくれる(?)
ような感じですよね。
というわけで、この夏は思考回路が停止しがちなので
酒と食の話が増えると思います!
乙山の場合、俳句はなし、ということで。

No title

 ロンドン留学日記から、「晩餐を喫した」というたぐいの記述を除いて、

明治33(1900)年

10月 1日 (於コロンボ)六時半、旅館に帰りて晩餐に名物のライスカ
レを喫して帰船す。

11月20日 Biscuitを買い昼飯の代りとなさんと試む。一カン80銭な
り。

明治34(1901)年

2月 15日 うちの下宿の飯は頗るまずい。(中略)尤も一週25 shil.
では贅沢もいえまい。

3月 5日 この日Baker Streetにて中食す。肉一皿、芋、菜、茶一
腕と菓子二つなり。一シリング十片を払う。

3月 29日 カルルスバード一瓶を買う。

4月 5日 宿へ帰って例の如く茶を飲む。今日は吾輩一人だ。誰もい
ない。そこでパンを一片余慶に食った。

 あまり食事の内容に関する記述はありませんね。本を買い込むため
に節約していたにちがいありませんし、カルルスバード(胃薬)なんぞを
服用しているからには、カロリーたっぷりの豪華な食事はめったに食べ
なかったのでしょう。

 ベイカー街での1シリング10ペンスの昼食も、下宿のまずい飯が週25
シリングだから文句はいえないという記述から考えると、外食としてはそう
高級なものではないと思います。

 昼食代わりにビスケットというのは泣かせますが、お菓子のたぐいは好
きだったのかもしれませんね。先生、ビスケットをボリボリ食べながら本の
頁をめくっていたのかと想像すると、なんとなくおかしくなってきます。

Re:薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんばんは! コメントありがとうございます。
漱石の日記から貴重な引用ありがとうございます。
ううむ、どうやら食事がまずい、というのは本当のようですね。

安いからまずい、のではなくて、本当にまずいのでしょう。
そのあたりの事情は、当代で英国で見聞された林望さんのエッセイにもあります。
ただ、その中でもうまいものを見つけて紹介されているのは違いますけど。

林望さんのエッセイの中で記憶に残っているのは、
彼が下宿していた近所の女の子に「お昼は何を食べたの?」と訊く箇所です。
彼女はかくかくしかじかの物を食した、と彼に告げるのですが、

夕食後、再び遊びに来た近所の女の子に、
「晩御飯は何を食べたの?」と訊くんですね。
答えは、昼に食べたものと、まったく同じものだったのです。

英国に行った人の多くが言うのは、
英国式朝食(イングリッシュ・ブレックファスト)を、三回やるのがよい、と。
食べ物なんぞに云々言うのは英国的精神に反する、ということなのでしょうか。

世界的に見て(?)粗食の分類に入ると思われる(?)日本人が、
(本当は違うのでしょうけど、日本食はヘルシーだと思われているようなので)
まずい、というのですから筋金入りです。

No title

こんばんは~♪
今頃風呂上がりの冷たい一杯でも楽しんでおいでの頃でしょうか?^^

『思い出す事など』は読んだかなあ。読んでないかなあ…。
お粥のところは記憶にあるような気がしますが、弟子たちや奥さま、
次男さんの思い出話も読んでいるので、漱石本人が書いたものを
読んだのかどうだか区別がつきません。^^

きっと、甘いもの好きだったことは確かですね。
若い頃からお汁粉とかのこと書いてるし。あの謹厳な感じの漱石が
こんなふうに食べもののこと書いていると、なんだか愉快で、しかも
胃病で亡くなっているのを知っているだけに、せつないですね。
意外なことに漱石はなかなか運動神経もよかったらしいですよ。^^

落語は相当好きだったようです。猫など読むと、江戸の洒脱が身について
いたひとと感じますね。茶目っ気の多い人だんような気がします。
私はそういう漱石が好きなのかもしれません。

ぜひぜひ、漱石全集読破、というのも、ブログの正式企画にいれてくださ~い♪(笑) 

Re:彼岸花さん

彼岸花さん、こんばんは! コメントありがとうございます。
食事と酒を済ませ、熱いコーヒーを(この季節に!)飲みながら、
これを書いています。どれだけ暑くなっても、なぜか朝は熱い紅茶ですし、
食後は熱いコーヒーと決まっています。

ただ、外食の場合はなぜか(?)決まってアイスコーヒーなんです。
これ、乙山の七不思議、でありますな。
大阪(関西)では昔、本当においしいアイスコーヒーを飲ませる店が
けっこう多かったんじゃないでしょうか。それを求めているんだと思います。

だけど今はどこへ行ってもたいてい満足できなくて、
おいしいアイスコーヒーはもう〈HOBO’S CAFE FOREVER BOY〉くらいしか
ないんじゃないでしょうか。

若いころの漱石の写真を見ると、なるほどスポーツマンだとしても
不思議ではないような相貌ですよね。ラグビー選手なんかに合いそうなくらい。
大学予備門(一高)時代は相当やんちゃだったのかもしれません。
その一端がちらっと伺えるのが漱石のエッセイなんです。

甘いものが大好き、なんていうと、
もう可愛らしいくらいですね!
たいへん失礼ではあれど、それも敬愛される一部になっているのかなあ、
などと思うんですよ。

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