夏目漱石 「それから」

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夏目漱石「三四郎」のことを記事にしたのは昨年(2011年)の12月11日のことだった。少しずつ読んではいるのだが、まるでかたつむりがゆっくり進んでいるかのようだ。年を越してようやく「それから」を読み終えた。たしか高校の教科書でダイジェスト版(あらすじに近いようなもの)を読んだ記憶があるのでわりとすんなり読めたように思うが、たぶん主人公の長井大助に感情移入できるかどうか、というのが好き嫌いの分かれるところではないかと思う。

長井大助は、父親が時流に乗った事業に成功したおかげで、自分は30歳になっても仕事もせずのんびりしていられるという身分。生活費は父親にもらっているにもかかわらず、家を構え、住み込みの家政婦と書生の門野(長井大助の家に住み込んで何かと雑用をこなしている)を抱えて暮らしている。帝大(現東京大学)卒のインテリで、丸善から洋書を買って読み、音楽や舞台芸術にも通じている。

彼はまた、鏡を見て身繕いする時間もたっぷりとり、色白でなかなかの美男子ぶりのようである。焼き麺麭(トースト)と乳酪(バター)で朝食をとり、肉刀(ナイフ)と肉匙(フォーク)を使って食事をする場面などが書かれており、七輪で秋刀魚を焼いて食うとか、納豆をご飯にかけて食べるような日本の庶民的な光景はほとんど見られない。

花を買ってこさせては寝室に置き、花の香りに包まれて睡眠をとることもあり、別の場面ではそれに香水を使うこともある。酒を飲んでも決して乱れることもなく、かなりの量を飲んでも翌日には二日酔いにならぬという丈夫な体も備えている。父親に依存している身分ではあるけれど、兄の誠吾や兄嫁の梅子には一目置かれ、甥にも慕われるという立ち位置である。父親からは何度も縁談をもちかけられるが、やんわり断るのを常にしている。

そんな具合の長井大助なのだが、現代の感覚からしても、親に家を建ててもらって住み込みの家政婦を雇っている(!)となると相当なものだろう。関西で喩えると、長井大助が住むのはやはり芦屋あるいは神戸の山の手あたりが似合っているような気がする。どうしても大阪市内に設定しなければいけないとなれば帝塚山あるいは上町台地あたりになるだろうか。ちょっと軟弱(?)で、安全な立場にいて享楽主義的生活をしながら世の中を斜めに見ている、このあたりが、いささか感情移入のしにくいところではないだろうか。

さて小説の筋はご存知の方も多いと思うが、友人の平岡と結婚した三千代(周旋したのは大助)が体調すぐれず元気もなくしていくことを心配する大助は、自分が深く三千代を愛していたことを自覚し、親の縁談を断り、三千代と暮らしていくことを決意するというもの。不倫だの略奪だのという言葉がすぐに思い浮かぶけれど、よくありがちなすったもんだの展開にはならず、平岡との話し合いはわりとすんなり収まるんですね。

進んだというかひらけた自由な考えを持つ若いインテリと、因習にとらわれた社会/世間との対決(対立)というのが大きな主題になっていて、義を通して生きるか、自然の情にしたがって生きるかで大助は悩むのだが、最終的に世間にどんなふうに思われようと自然の情にしたがって生きる道を選ぶ。そこに生まれるある解放感とかカタルシスのようなものが「それから」の魅力だろうか。

「それから」は東京朝日新聞、大阪朝日新聞紙上に連載され、翌年出版されたらしいけれど、当時(1909年)は因習とか慣習にしたがって生活していた人が多かったのではないかと想像する。本心では望まぬ進路や結婚に、まるで押し流されるようにして収まっていった人たちもいたのではないだろうか。それは今の時代においても、多かれ少なかれまだ残っているように思う。いやそれどころか、日本において「世間」はたぶん永遠に不滅(どこかで聞いた言葉だな)なのではないだろうか。


【付記】
● ちなみに「それから」は1985年に森田芳光監督で映画化されております。松田優作(長井大助)、藤谷美和子(三千代)、小林薫(平岡)という配役で、乙山も見たことがあります。『探偵物語』(1979~80)や『蘇る金狼』(1979)、あるいは『野獣死すべし』(1980)などのイメージが強い松田優作ですが、「それから」ではちょっと軟弱なインテリの役を演じてまったく違和感がなかったように思います。


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No title

大阪市内なら帝塚山か上町台地・・・納得!
沿線で言えば阪急宝塚線近辺もそんなハイソな雰囲気が
あるような気がします(笑)
個人的には大助という人間はちょっとイラっときそうですが(笑)、
作品は一度じっくり読んでみたいです♪

Re:zumiさん

zumiさん、こんばんは! コメントありがとうございます。
万代池の周辺もいいですし、松虫のあたりも好きです。
阪堺電車(路面電車)の沿線って、何とも言えない雰囲気がありますね。

えっ、一応乙山も宝塚線沿線なんですけど……
まあ川西の雲雀丘花屋敷とか、豊中の刀根山あたりはそうかもしれませんけど、
そんないかにも、といった人を見かけたことはありませんよ。

「それから」の大助はもう、うやらましいですね。
なんともいい御身分じゃないですか。漱石が「余裕派」などと称されたのも、
なんとなくうなずける気がします。
映画から入るのもいいかもしれませんね。

No title

 『それから』はずいぶん昔に読んだのですが、この作品はどうも苦手ですね。あきらかに
インテリ向けで、文学部の論文ネタとしてはぴったりかもしれませんが(笑)。

 ぼくなんかは、ずいぶんせっぱつまった切実な小説だなと思った記憶があります。案外
漱石自身が反映されているのでしょうか、明治の世の中にぴったりはまる身の置き所のな
さ、身動きの不自由さのようなものを感じました。

 ですから息苦しさはひしひしと伝わってきたけれど、余裕というものはまるで感じられま
せんでした。

 もっともずいぶん若いときに一度読んだきりですから、読みが浅すぎたのかもしれません。
でも読み直そうという気持があまり湧いてこないんです。気が重くなりそうな予感がするん
ですね。まあ一種の逃げなんでしょうけど、年のせいか、めっきり根性がなくなりました。

Re:薄氷堂さん

薄氷堂さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
ううむ、なるほど「それから」はインテリ向きかもしれませんね。
乙山はむしろ「猫」や「三四郎」のほうが本筋とあまり関係のない知識的な
ことがたくさん書いてあって、衒学的に思えたのですが。

そのような部分をかなり捨象してより大衆向けにブラッシュアップしたのが
「それから」だと個人的には感じています。
これは人それぞれの受けとめ方ということでしょうね。

たしかにもうたくさん本を読めなくなってきたような気もします。
通勤電車の中で読もうといつも思うのですが、つい忘れてしまい、
通読するのに何日もかかってしまいました。
熱中するような本だったら、そういうことはありませんよね。

電車の中で読もうとすると、眼鏡を外したほうが都合がいいようになってしまいました。
眼科に行き、眼鏡を新調しようと思うのですが、
それもなかなか思うように参りません。読書は気長に行こうじゃないですか。

No title

こんばんは。^^

『それから』。
夏目漱石大好きの私。
『それから』と『こころ』は共通したテーマがありますね。
ひとの恋人を奪う、ということです。
私ね、漱石が好きなのは『吾輩は猫である』と『三四郎』が大好きだからであって、
実はその他の作品はこの2作ほどには大切に思えないんです。
もう、特に『吾輩は猫である』の軽妙な知的くすぐりが大好きで。
私が夏目漱石を好きなのは、作品自体よりもその人格を崇拝している
からかもしれません。
奥さんの夏目鏡子さんの書いた『漱石の思い出』と、二男の夏目伸六さんの
『父・夏目漱石』が大好きです。
『それから』は、漱石の恋愛観が出ていて面白いですね。
と言っても、漱石という人は、親友の奥さんを奪うようなそんな人ではない。
恋愛には恬淡としたひとだったろうと思います。
しかし、彼の胸の中には、生涯思い続けた女性がいたのだろうと思います。
決して表に出さぬ秘めた恋ごころ…
『こころ』や『それから』は、そんな抑えた恋の想いをここで昇華しているのでは
なかろうか、と、私は勝手に思っています。
高踏派とか、余裕派、とか、漱石は現世の欲を超越したような作家と
捉えられがちだけれど、実は非常に情の濃いひとだったのではなかろうか、
ひとに優れた近代的知性がそれを抑えてはいたけれど…というのが
私が漱石を好きな、また一つの理由でもあります。^^

『恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり 』

などという句の、生きものへの優しいまなざしを思いますと、
ますます、漱石は、実は恋をよく知るひと、という気がしてくるのです。

…勝手な御託を並べてみました~!(爆)

Re:彼岸花さん

彼岸花さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
なるほど「猫」と「三四郎」は最も漱石らしい作品という気もします。
漱石の人となりが作品によく表れているとでも言えばいいのでしょうか。
「猫」をもう一度じっくり読んでみたいと思っています。

作家の描いたものもそうですけど、作家そのものが好きになるというのがありますね。
漱石は学校の先生をなさっていた関係もあって、
教え子筋である多くの人たちに慕われ、愛されたのでしょう。

もしご近所にお住まいなら「先生、魚のいいのが入ったんですよ」などと
言いながら、一升瓶と一緒にはせ参じてしまいたくなる人、
それが夏目漱石なんじゃないかなと思うんですね。

望まぬ進路や結婚というものが、当時は(今尚)多かったのではないか、
そんなふうに想像しています。たとえ好いて付き合い、一緒になったとしても、
男の中にはたぶん、その人だけが胸にいつまでも抱いている「女性」が
存在するのではないか、そんな気がしています。

彼岸花さんのおっしゃるように、それを「それから」という形で昇華したのかもしれませんね。



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