吉行淳之介 『薔薇販売人』

吉行淳之介 『薔薇販売人』 角川文庫 (1972)

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十代の終わりごろ、友人に影響されて吉行淳之介を読み始めた。そんなに良いのなら、どれひとつ読んでみてもいいかな、などという気持からではなく、友人のセンスに少しでも近づきたかったというか、それを少しでも理解しようとしていたのではないかと思う。若いころ非常に親密になった同性の友人に対する感情は、どこか男女の恋愛感情に似た部分があるのではないだろうか。

初めて読んだ吉行淳之介は「?」とでも表現するしかない、つかみどころのない感じがした。いまにして思えば未熟な自分が頓珍漢な読み方をしていただけに過ぎないと理解できるのだが、背伸びをしたいお年頃特有の虚勢も手伝って、わかっていないのにわかっているふりをしていた、というのが本当のところではないか。

つかみどころのない感じを抱きながらも、その独特の雰囲気(そうそう、これですよ! 雰囲気なんですね。内容を、ではなくて雰囲気を味わう、そして恰好をつけて気分に浸りきるのです)にどこか惹かれるものを感じて、吉行淳之介の文庫本を何冊か買って手元に置いていた。

いま本棚にある吉行淳之介の本を見ると、『薔薇販売人』『闇の中の祝祭』『子供の領分』『私の文学放浪』(以上角川文庫)、『出口・廃墟の眺め』『鞄の中身』(講談社文庫)、『砂の上の植物群』(新潮文庫)などがある。もし全く理解できないのなら、一冊読んで(あるいは途中で)終わり、となるだろうから、ある程度の数があるところを見ても自分は吉行淳之介が嫌いではなかったんだな、と思う。

さて、休日の昼間、何をするわけではないが外は暑いので部屋にいなければならぬ、などというときには読書に限る。じつは図書館まで歩いて5分以内という恵まれた環境にある(これも部屋を決めるポイントになった)のだが、図書館まで行くのも面倒だ。整理して見晴らしの良くなった本棚から吉行淳之介『薔薇販売人』を取り出してベッドにごろりとなりながら、読んでみた。

改めて読んでみた吉行淳之介は形容句や副詞句が少なめで、言葉遣いも凝った感じのないじつに平明な文体であることがわかった。情景描写に力を入れることもなく、もっぱら登場人物の心理描写に多くを割いている。この心理描写の巧みさこそ、吉行淳之介の魅力なのだろうと今になって思う。

たとえば表題作「薔薇販売人」では、雑草をバラだと称して売る話を聞いた若い会社員・檜井二郎がそれを実行しようと既婚者ミワコに近づくが、夫である伊留間恭吾はミワコが放埓な女であるかのように示唆する。若い檜井二郎がミワコに惹かれていくのを眺めて愉しもうという魂胆なのだ。ミワコは二郎を相手にしないが、二郎がただの初心な若者ではなく、性的関係を持つ可能性のある対象であるとわかった瞬間、ふっと二郎に心を許す。しかし二郎は、いまこの瞬間を伊留間恭吾が襖の陰から見ているのではないか、と確信し、ミワコをおしのけて襖に歩いていき、思い切って開けてみる――

凝縮した瞬間の緊張感と、その後の虚脱感がえもいえぬ読後感を残すが、この人の結び方はじつにうまいなあ、と感心してしまう。いまはもう廃止されてしまったが執筆当時はまだ存在していた娼家(遊郭)の女・道子に惚れこんだ主人公が、彼女を自分だけのものに出来ぬ嫉妬の感情に苦しむ「驟雨」でも幕切れの見事さは際立っている。彼は、朝別れた道子に、その晩会いに行くのだが、先客がいて「四十分ほどしたら来て」と言われ、酒場に入って時間を潰すエンディングを少し引いておきましょう。

 二杯めの酒を注文した彼は、寛大な心持になろうとして、次のような架空の情景を思い浮かべた。……それは、道子に馴染んだ男が数人集まって、酒を酌みかわしているのである。
「いや、何とも、あの女(こ)はいい女でしてな」「まったくお説のとおりで、これをご縁にひとつ末長くおつき合い願いたいもので、ハッハッハッ」
(中略)
 酔いは彼の全身にまわっていた。
 もぎられ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに、ニス塗りの食卓の上に散らばっていた。脚の肉をつつく力に手応えがないことに気づいたとき、彼は杉箸が二つに折れかかっていることを知った。(「驟雨」『薔薇販売人』角川文庫所収)

この部分だけではなんだか伝わりにくいかもしれないが、他の作品でもエンディングの巧さは光っていると思う。他に「重い身体」「夜の病室」は作者が胸を悪くして入院していたときの経験からなるもので、吉行淳之介は文学賞をとったという知らせを病院のベッドで祝いの言葉もないままたった一人で聞いたという。デビュー前後の初期作品集といった趣の本書は、瑞々しさが感じられる一方で抑制の効いた巧みな語りにも感心させられる、吉行淳之介の魅力がいっぱい詰まった一冊ではないかと思う。


【付記】
● 現在あらためて吉行淳之介を読み返してみると、むかし自分がいかに吉行淳之介をわかっていなかったかということを強く感じます。今でもそんなに読めて(わかって)いないかもしれませんが、また読みたくなる作家の一人であり続けています。

写真の『薔薇販売人』(角川文庫)は1982年の刊です。ああやはり、十代の終わり頃に読んだんだな、というのがわかります。いま吉行淳之介の本は文庫本であまり見かけないようですが、1970~80年代はたいへん人気があった作家でした。

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No title

只野乙山さん、かえるままも十代の終わり~20代にかけて、吉行淳之介の本を読みあさってました。とても共感を覚えます!(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ
多分、「大人の恋愛」について学びたい一身だった様な気がします。
只野乙山さんの記事を読んで、本棚を探してみましたよ。
でも、かえるままの持ってる本を書くのが恥ずかしくなりました。(*´∀`*)
男と女は同質ではないと、知り始めた頃ですね.....
今読んだらどう、思うかな。また、読んでみたくなりました。

乙山さん、こんばんわ。

やっと出てきました、吉行淳之介。
待ってたんです、いつか出てくると。

乙山さんほどじゃないですが、いろいろな作家の作品を読みました。
結局、自分の好きな作家の一番は吉行淳之介。

吉行のほとんどは読んだと思いますが、エッセイの中の逸話みたいなのも好きで、
結局、吉行の生き様というかそのセンスが好きなんですね。
男と女の機微、さりげない男同士の友情、麻雀話、酒とうまいもの。
酒とうまいものの話も、開高健より繊細で押し付けがましくない精神性がありました。

吉行がなくなってから数年後ですが、掛川にできた吉行淳之介文学館にも行ってきました。
好きな作家はたくさんいますが、記念館みたいなところに出かけようと思ったのは
この吉行だけです。

吉行淳之介を取り上げてくれて、乙山さんに感謝。ありがとうございます。

Re:かえるまま21さん

かえるままさん、こんばんは! コメントありがとうございます。
大人の恋愛……そうですね、赤線関係の話題ではやはり大人の恋愛、
ということなのだと思います。

「驟雨」にせよ「ある脱出」にせよ、こういう背景(赤線とか遊郭)を前面に出せる、
最後の作家だったのではないか、と思うのです。たとえばね、
永井荷風などを感じさせる最後の作家、という感じでしょうか。

やはり吉行淳之介は十代の乙山には高級すぎました。
まだまだ、という感じの乙山は、やっと最近、吉行淳之介の
懐の深さを実感として思い至った、という感じでしょうか。

吉行淳之介のいろいろな本をお持ちでいいではないですか!
この人は対談、エッセイの名手ですし、名手と言えば、
酒場で女性の身体に何気なく触る名手中の名手だったそうで……
実際、この人は本当にもてた人みたいですね。

いかにも「文学」ふうなものより、
娯楽的なものの方が、ひょっとしたらこの人の本質があるのかも?

Re:mapことクワトロ猫さん

mapさん、こんばんは! コメントありがとうございます。
mapさんならおわかりいただけると思いますが、
好きな人ほど、なかなか書きにくいものがあるのです。
どれくらい好きか、はさておいて、ちょっと離れて
冷静になって筆をとらないといけません。

そういう話題が、音楽にせよ、小説にせよ、いくつかあります。
とかなんとかいっているうちに、日々は流れていきますし。
お盆休みがいい機会になったようです。
落ち着いて、吉行淳之介を読み直すのいい機会でした。

ですが、たったこれだけの文章を書くのにも、
何度『薔薇販売人』を読み直したことでしょう。
舞台裏はあまり見せない主義ですが、
もっと何かを言いたかった、何かを伝えたかった、
というのがあるのですが、それが言えない。

ひょっとしたら、その「もやもやしたもの」が
ウェブログなり、他の何かなりの、
「書く」動機になっているのかもしれません。

No title

吉行淳之介。…最後の、いい意味での『文壇人らしい』香りをもつひと、
という気がしますね。
今は、『香りのある』作家が本当に少なくなりました。
『薔薇販売人』。わたしも文庫で持っています。
ああ…。本当に吉行淳之介はうまいですよね~。
『巧い』…その一言かなあ、わたしがこの作家に抱く印象は。
『薔薇販売人』の終わり方。鮮やかですね~。
その他のどれもいいけれど、わたしが印象に残るエンディングは、
『水族館にて』です。この男女の機微! …もうたまりませんね。

わたしが吉行淳之介を好き、というより尊敬するのは、
彼が宮城まり子さんの生涯の恋人であったからかもしれません。
吉行淳之介は、女を知り尽くしている気がします。それはそれは
もてたであろう…。その彼が選んだ女性の一人が宮城まり子というひとであったこと。
それが、(わたしにとっては、ですが、)彼のポイントを上げている(笑)。

世間では、女の選び方、男の選び方で、その人の株が上がったり下がったりします。
下賤な女を選んだから、その人が駄目というわけではない。それはそれで
その人のある悲しさを表していて、私はいいなあ、と思う。
でも、この人がこの人を選ぶかあ!と、とりわけ感動を覚える選び方、
というのが時々ありますよね。
その一つの例が、この二人、という気がわたしはずうっとしていました。

あら。作品論から離れちゃった!(笑)すみません…

この文庫本では、解説の中井英夫の文がまた、いいんですよね…。

Re:彼岸花さん

彼岸花さん、こんにちは! コメントありがとうございます。
「水族館にて」もいいですね。
自分の行きたい道を選べなかった人、というのは
昔は本当に多かったのではないかと想像します。
とくに女性はそうだったのではないか、と。

水族館で物思いにふける女性のアレルギー反応が、
夫以外の男性にも出てしまい、とまどう様子が何とも言えません。
「絵を描いておりましたの」
この一言、なぜか彼岸花さんを思い出しました。

考えてみると、吉行淳之介は学業半ばで編集の仕事に手を染め、
同人誌で小説を書いていたという経歴があるわけで、
デビュー前後の『薔薇販売人』が巧みなのもうなずけるわけです。

1980年代から「文壇」や「文学」は変わり始めて現在に至っているのですが、
吉行淳之介は変わる以前の雰囲気を残した最後の作家、という感じがします。
乙山の世代なら1980年代以後の作家に多く触れるのがふつうですが、
どういうわけか、昔の作家のほうを多く読んできました。

昔の作家は、手元に置いておきたくなる魅力がありますね。
吉行淳之介は「昔の作家」と言うには新しい人のはずですが、
なぜか昔の作家の雰囲気が漂っている人です。

幅が広いですね。

僕の考え方は、幅が狭いですね。
本を読んでいけば、いろんな幅が、
広がりますね!

Re:テラゲン合格さん

テラゲン合格さん、コメントありがとうございます。
わからなかった(わかっていなかった)ことが、少しずつ
わかりかけているような気がしています。

No title

なんとコメントしたらいいのか、困ってしまいました。
本と人との繋がりはとても個人的なものと私は考えていて、その関係性を言語化するのはとても難しいです。読後のレビューとかうまく言葉にできない方です。
記事からはなんだかいい雰囲気がして、それになんてコメントしたらいいのか分からなくて、ついブログに出たり入ったりしてしまいました。
私もそんな感じの本に出会えるといいなと思いました。

すみません、感覚的で曖昧なコメントで。。。(汗)

Re:依里さん

依里さん、こんばんは! コメントありがとうございます。
本と人との関係に限らず、たとえば音楽と人、絵画と人との関係
というのもあるでしょう?

それらはとてもパーソナルな出来事である一方で、
多くの人で共有できる部分があるのではないかと思います。
そうした部分に一庶民として、一言二言、なにか言ってみるのも
いいじゃありませんか。

あ、知ってる知ってる!
いいよね、それ!
なんかわかんないけど、いまいち?
そういう感じが基本になっているのです。

この場合、吉行淳之介の『薔薇販売人』を読んだか(知っているか)、
ということだけがポイントで、知らないんだったら、スルー、スルー!
それでいいんですよ。

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