村上春樹 『1973年のピンボール』

村上春樹 『1973年のピンボール』 講談社文庫 (1980:初出年)

MurakamiHaruki_Pinball1973.jpg
村上春樹の隠れファンである。
別にことさら「隠れファン」である必要はないのだが、そんなふうに言いたい心境である。1970年代後半から1980年代というのはいろんな意味で転換期だったように思う。日本の社会が高度経済成長期から大衆消費社会(脱工業化社会/高度資本主義社会/情報化社会)に転換し、フィクションの世界もその潮流の只中にあったということだろう。

だから1970年代後半から1980年代に登場したフィクション作品群、たとえば片岡義男『スローなブギにしてくれ』(1975)、村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976)、村上春樹『風の歌を聞け』(1979)、田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1980)、島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』(1983)、山田詠美『ベッドタイム・アイズ』(1985)などはそれまでのシリアス系フィクションが持っていた雰囲気とはどこか違う味わいがあった。

本当は1980年代に入るころに思春期を迎えたわけだから、新しい作家の登場に飛びつくのがふつうのはずなんだけど、どういうわけか私はそういうふうにはできなくて、そうした流れをどこか斜めに構えて見ていた。そして新しい作家たちが話題になればなるほど、辻邦生、安岡章太郎、遠藤周作、北杜夫、小川国夫、吉行淳之介、田宮虎彦、庄野潤三、井伏鱒二、太宰治、坂口安吾などを読むという、今から思えば苦笑したくなるへそ曲がりぶりだった。

その後そんなに意固地にならなくてもいいでしょう、そろそろ読んでみたっていいじゃないかと思っていたころ、ちょうど『ノルウェイの森』(1987)が大ヒットした。ベストセラーの本はとりあえずパスという、これまた意固地&へそ曲がりの性癖のゆえか、村上春樹の本を手にとって読み始めたのは1990年代に入ってからだった。読んでみると独特の世界に惹きこまれ、それまで読んでいなかった分を取り返すかのごとく、まとめて大量に読んだ。そんなわけで、デビュー当初からのファンとは到底言えないのである。

さて本書『1973年のピンボール』は、村上春樹デビュー二作目で、いわゆる「鼠三部作」の第二作。作者が本の中で語っているように、主人公「僕」の物語であると同時に「鼠」の物語でもあり、そして「ピンボール」の物語でもある。

東京の大学を卒業後、共同経営者と翻訳会社を立ち上げて生活する「僕」の日常と、関西のとある町(おそらくは兵庫県芦屋市あたり)にいる「鼠」の様子が、作中で交互に進行していく。ちなみに「鼠」は前作『風の歌を聴け』の中で「僕」が出会った友人で、彼が自分のことは「鼠」と呼んでくれ、というのでそういう名称になっている。

導入部分は「1969―1973」と題されており、大学時代に交際していたと思われる「直子」の思い出が語られる。これは本編とほとんど関係がないのだが、この導入部分に本編で活躍する「双子」の姉妹がすべりこませてある。そのあと「ピンボールの誕生について」という、ピンボールマシンについての文章が続き、本編が始まる。

「目を覚ました時、両脇に双子の女の子がいた」とあるから、おそらく「僕」がどこかで酩酊するほど飲んで、どこかで双子と出会い、彼女たちに支えられるようにアパートにたどり着いたのだろうけど、そこは詳しく語られない。そうして「僕」はベッドで双子の姉妹の間に潜りこんでカントの『純粋理性批判』を読む。「僕」と双子の姉妹はバックギャモンをしたり、クロスワードパズルをしたり、近所のゴルフ場へロストボールを拾いに行ったりして過ごす。

「鼠」は行きつけの店「ジェイズ・バー」で中国人バーテンダー、ジェイを相手にビールを飲んでいる毎日だが、自分の生き方に疑問を抱き、悩みを抱え込んでいる。海に近いところに住む女性と知り合い、関係を持つようになるのだが、彼女のことも断ち切るようにして、鼠は住んでいる街を離れる決意をする。「ジェイズ・バー」で最後のビールを飲んだ鼠は、彼女にさようならも言わないで街を離れるつもりなのだ。

前作『風の歌を聞け』の作風を受け継いでいるのか、本書もかなり断片的で、しかも「僕」と「鼠」の物語が交錯して進行していくことでその傾向が助長されているように感じた。断片的である上に、対象をぼかして書いてあることが多いのでわかりにくい部分も少なからず存在している。実際、「鼠」がどうして悩んでいるのか、さっぱりわからないし、相当女性を愛しているだろうに、どうして彼女を置いて行かねばならぬのか、これまたよくわからないのだ。

しかしこのわかりにくさ、対象をぼかして書くときの書き手と対象との「距離感」こそが、本書というか初期村上春樹の魅力なのではないかと思う。ドライでクールな描写を支えるのは作者の醒めた目であることは確かなのだろうけど、そのクールな外観のそこかしこに繊細で優しい魂がほの見える。

それともう一つ村上春樹の魅力を挙げるとするなら、やはり洒脱な台詞にあるのではないかと思う。会話の部分こそ大事な要素なんだ(と思う)けど、しゃべ(り過ぎ)る登場人物を嫌う傾向が、それまでのフィクションや読者の側にもあったのではないだろうか。もっと気の利いた登場人物同士のやり取りがあってもいいのではないか、と思うのだ。

もう一度、村上春樹の作品に流れているあの空気を味わいたいと思わせる何かが、そこには確かにあって、だからこそ、何度も初期の村上春樹の本を読み返す人がいるのではないかと私は思っている。


【付記】
● 『1973年のピンボール』は断片的なのにいろんな要素が入っている、「ブリッジ」的な作品なのかなあ、と思います。ここから「鼠三部作」の締めくくりである『羊をめぐる冒険』が出てくるわけですし、あの『ノルウェイの森』は本作から派生した「直子」のスピンアウト小説だという見方もできるわけです。


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No title

>ベストセラーの本はとりあえずパスという
これ、私もそうでして。
よってムラカミハルキは未だに手が出ませぬ(そんなのばっかりだけど)
雰囲気もつかめないですね。どういう小説なのか、色々な感想を読んでもちっともわからない。読まなければわからないのでしょうけど…

Re:RSさん

RSさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
そうそう、まだ村上春樹を読んでいないという人が、
けっこういるんじゃないかって、そう思ってたんです。

ポール・オースターは本当に無理に読まなくても、と思いますが、
村上春樹は「読んでみてもいいのでは」と思います。
そのくらいのつもりでね。

読まなければわからない、というのは本当です。
なのでまず『風の歌を聴け』を図書館あたりで、
手に取ってみてはどうでしょう。
けっこう、「むずかしい」んですよ。

だけどなんともいえない雰囲気が残るはず。
その雰囲気が、村上春樹の場合、大切なんでして。
それをもう一度味わいたいっていう気になる(?)んですね。

No title

乙山さん。こんにちは。
村上春樹。う~(笑)。
私もね、『読んでない人がけっこういる』口の一人なんですよ。

私も、今流行ってるものはとりあえずパス、するタイプでして、そのうち、
人が目に止めなくなった頃にでも読むか、と思っていてそのまま読まずに
幾多の名作を逃して生きてきた人間です。
ある時期からそうなって、現在に至っている。
その『ある時期』というのがまさに、ここで乙山さんがお挙げになった
村上春樹、村上龍、田中康夫、片岡義男…などの活躍し始めた時代、かなあ。
私が30歳になろうかとしている時です。田中康夫、山田詠美、島田雅彦は世代が下だけど、
他の方はほぼ同世代かなあ。なにか、読みもしないで敬遠して
(それでも代表作は一応読んでいます)、相変わらず、漱石や鴎外、秋聲、露伴、
など明治の文豪のを読み返してばかりいましたねえ。
現実から目をそむけ、現実から逃げたかったのかもしれません。

村上春樹は、『羊をめぐる冒険』を20年ほど前に読んで以来。
ぽちぽちエッセイは読む、というくらいだったんですけど、
去年からいきなり、『海辺のカフカ』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
『1Q84』と読んで、ああ、こういう作家だったか、と思うようになりました。
要するに食わず嫌いだったんですね。

本も映画も音楽も。そういうことがどれほど多いことでしょう!
今になって慌てていますが、とても追いつかない。
時を失しすぎました(苦笑)。

Re:彼岸花さん

彼岸花さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
そうですか、彼岸花さんも……とすると、
けっこう流行りものはパス、という人が意外といるんだな、
と勇気づけられ(?)たような気がします。

食わず嫌いって、本当にありますね。
記事の第二段落で挙げた作家たちの中で、
じつはひとつだけ、乙山がきちんと読んでいない物が
含まれているんです。

映画も、音楽も、本も。
まったくおっしゃるとおりです。
だけどまあ、自分のペースでゆっくり楽しんでいこうと、
乙山は思っています。

見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった

こんにちは。
私も村上春樹は初期が好きです。
とくに「1973年のピンボール」と「中国行きのスロウ・ボート」。
なかでも「スロウ・ボート」収録の「午後の最後の芝生」が大好きで
思わず学生時代に芝刈りのバイトをしてしまったほどですというのは嘘ですが、
今でも時々読み返します。

No title

こんばんは~実は私も春樹未読者の一人です・・・
日頃から古本&図書館利用メインで流行りモノと縁遠い、
というのもありますが(^^;)
流行り廃れはどうあれ、このまま良いものを知らずに一生を
過ごしていくのも悔しいので(笑)、また一度読んでみたいです♪

Re:木曽のあばら屋さん

木曽のあばら屋さん、こんばんは。コメントありがとうございます。
「午後の最後の芝生」、乙山も印象が残る作品です。
「僕」が最後に芝生を刈ったときの女性が、なんというか、
ちょっとした傑物なんですね。
芝刈りのアルバイトがそんなにいいんなら、
やってみようかな、なんていう気にさせられますね。

Re:zumiさん

zumiさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
おや、あなたも?!
なあんてね。

まだお読みでないのなら、やはり『風の歌を聴け』をお勧めします。
それから本書『1973年のピンボール』を読み、
次は『羊をめぐる冒険』というコースです。
それで、いわゆる「鼠三部作」読了!

次なるステップは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で、
それを読んだら「鼠三部作」の延長戦、『ダンス・ダンス・ダンス』です。
仕上げに『ねじまき鳥クロニクル』を読んだら、もういいのではないでしょうか。

おはようございます。

コメントがいつも乗り遅れるmapことクワトロ猫です。

乙山さんは私よりたぶん10歳以上は若い方とお察ししますが、
いつも不思議に思っていたことがあります。
どの文章にも安定感と奥深さがある。その謎が解けました。
並べていいただいた作家名、世代からいうと確かにへそ曲り(笑)
遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、いいなあ。よく読みました。
それでも、それ以前の文豪といわれる作家達からすると
「第三の新人」などとよばれた新風だったんですよ。
すでにみなさん鬼籍の人です。

村上春樹の話でしたね。みなさんのコメントを読むと、やはり似たもの
同士ですね。ベストセラーは敬遠する、という読書家ばかり。
私もそのクチなのですが、その昔「ノルウェイの森」を読んで、
会社員時代社内報に読書批評まで載せてしまいました。懺悔・・・・。

Re:mapことクワトロ猫さん

mapさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
ベストセラーはとりあえずパス、というのが乙山だけではなくて、
意外とたくさんいらっしゃるのを知って心強い(?)思いがします。

『ノルウェイの森』はそれまでの作品とは違って、
作風はむしろ古典的なのではないかと思っています。
しっかり書き込んである分、わかりやすかったのではないか、と。

乙山の個人的な好みでは、
旧制高校最後の世代の人たちの文章が好きです。
現代的な読みやすさと格調の高さがちょうどよいバランスなのです。

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