北森鴻 『花の下にて春死なむ』

北森鴻 『花の下にて春死なむ』 講談社文庫 (2001)

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本書は北森鴻(1961~2010)の「花奈里屋」シリーズ第一弾。三軒茶屋(東京都世田谷区)の路地裏にあるビール・バー「花奈里屋」のマスター・工藤哲也が、客の持ちかける相談や謎を解き明かす。

第一話「花の下にて春死なむ」は、俳句の会同人である片岡草魚が、自宅アパートでひっそりと死んだことから始まる。事件性がなく、検死の結果から肺炎などによる衰弱死であると判明したが、片岡草魚には親類や身元にかかわる一切の情報がなく、しかも住民票も届出がなされていなかった。片岡草魚と名乗る初老の男性は、いったい誰なのか?

とある駅に設置された図書貸し出しコーナーの本から、一枚の家族写真が出てきた。ところが、それは一冊だけではなく、複数冊のある限られたジャンルから、同じ家族写真が発見され、新聞記事になった。いったい誰が、何のために、家族写真を本に入れたのか、常連客を交えて「花奈里屋」での推理比べが始まる第二話「家族写真」。

多摩川河川敷に掘っ立て小屋を建て、そこで暮らしている老夫婦の生活を撮り続けて高い評価を受けたカメラマンが悩んでいたのは、自分の写真が世間に公表されてから老夫婦が河川敷の掘っ立て小屋から姿を消したことだった。彼らがいったいどうなってしまったのか、カメラマンがマスター・工藤哲也に話す第三話「終の棲み家」。

その他、赤い手をした人物が殺しにやって来るという噂が町に流れる第四話「殺人者の赤い手」、回転寿司店で鮪ばかり七皿も食べ、それを連日繰り返す男が登場する第五話「七皿は多すぎる」、そして第一話でも登場した片岡草魚の放浪の痕跡を求めて、女性がマスター・工藤哲也の力を借りる第六話「魚の交わり」などが収録されている。

メインの「謎と推理」はさておいて、「香奈里屋」シリーズのもうひとつの読みどころはビールと料理。とにかく「香奈里屋」で出されるビールが、とてつもなく旨そうなのだ! アルコール度数を変えた四種類のビール(おそらく3/5/8/12%くらいの刻みになっていると思う)が、ビールサーバーからピルスナーグラスに注がれる。

作中でも「今日はちょっと濃い目がいいな」とか「ここらへんで淡いのにしておきましょうか」などというやりとりが出てくるのである。ビール好きにはたまらないくだりで、読んでいるともう、ビールが飲みたくなってくるじゃありませんか! 「香奈里屋」で出される料理を、少し引いておきましょう。

「今年最後の冬瓜を、挽肉と煮て葛でとろみをひいてみました。コンソメ味ですから、きっとビールに合いますよ」
「サニーレタスとムール貝を、酢みそで和えたものをお出ししたんです」
「小鯛をワインビネガーと昆布でしめてみました。明日のお通しに、と思っていたのですがね」
「コキールというよりも『小鍋だて』と言いたいところです。生きたままの帆たてを貝殻ごと使ってみました。味は酒と醤油のみ、それにバターを仕上げに少しだけ。贅沢でしょ」
「合鴨の良いものが入りまして、その余分な脂身で吸い物を作ってみました。白髪葱を添えてありますから、意外にさっぱりとしていますよ。すこしアルコールで舌が疲れたことでしょう」(北森鴻『花の下にて春死なむ』講談社文庫 より)

いやいや、このへんで止めておきましょう。きりがないとはこのことで、まだ本の半分までいってないんですよ。こういうのを読むと、真似してみたくなって仕方がない。気の利いた、ちょっとした料理が作れるようになりたいものだと憧れているのだが、なかなか思うようにいかないことのほうが多いのが現実。

ビール・バーに通ってくる客が持ちかける話なので「大事件」が起こるわけではなく、それに主人公の探偵が大活躍をして動き回るわけでもない。探偵役のマスター・工藤哲也はつねに「香奈里屋」の店内でビールサーバーからビールを注ぎ、料理を作り、客の応対をしながら「推理」するわけである。なのでこれは「安楽椅子探偵」の一種だといえるだろう。

「身辺の小さな謎」が中心になっているので、大事件が起こって探偵がその謎に挑む、というスタイルでなければ満足できない方にはあまりお勧めできないかも。だけどまあ、こういう推理小説があってもいいじゃないか、とページをめくりながら思う。すべての推理小説が本格である必要なんてないのです。


【付記】
● これは相当料理好きの作者と見ました。そんな作者の、夢のビール・バーが「香奈里屋」なんでしょうね。だけど四つのビールサーバーでしょう。手入れが大変だろうなあ、と思います。毎日、管に水を通して洗浄するんでしょうか。「香奈里屋」のマスターだったら、やるんでしょうね。ビールサーバーの洗浄を怠ると、注いだビールに白い「滓」または「カス」のようなものが出るようになります。めったにないと思いますが、こういう店はちょっと……
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こんばんは。

先日は温かいお言葉をいただき、本当にありがとうございました。
自分を見つめ直すいい機会になりました。

この本。よさそうですね。
最初から最後まではらはらするミステリーもいいけれど、こういう、
日常の中にふと口を開けた落とし穴、のような出来事を描いたものも
またいいですよね。

なにも小説の中の世界、だけではなく、現実の私たちの暮らしの中でも、
「これは?!」と思うような出来事がたくさん出来する。
私が去年、近くの商店街で見かけた、老夫人。
只者ではない気配をその後ろ姿からも感じました。
夏の夕暮れでした。その日の青空よりもまだ青い、目の覚めるような美しい
ブルーのワンピースを着ている。それに、ガルボハットのようなつばの広い帽子。
80近いくらいの方にしては、めちゃくちゃ長身でお洒落でいらした。
多少古めかしいけれど、すてきでした。
私は自転車。追い越しざまに、その方のお顔をつい見てしまいました。

美しいお顔を想像していたけれど、これはまあ、なんという厳しい顔つきだったでしょう!
足が不自由になっていらっしゃるせいもあるかもしれないけれど、それだけではない、
人生の苦渋が、その顔には刻み込まれていました。

その顔と美しい青のドレスのアンバランス。
どうですか。どんな方なのか、追跡探偵、いや、プロファイリングを
してみたくなりますよね。

長く書いてごめんなさい。読んでみたいです。

Re:彼岸花さん

彼岸花さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
殺人事件が起こり、名探偵が登場するというパターンではなく、
日常生活で起きる「小さな謎」を解く、というもの。
ちょっと息を抜いて読むにはもってこいのシリーズかもしれません。

買い物に行くと、不思議な人をよく見かけます。
乙山の場合、よく近所の生協(コープこうべ)に行くのですが、そこで
「いつも探検帽にチェックのシャツ、リュックサックの人」や
「袖のところに線の入った、船長さんが着るような服を着た人」を見かけます。
乙山はひそかに、前者を「謎の旅人」と命名しましたし、
後者を「キャプテン」と読んでいます。

彼岸花さんがご覧になった御婦人。
なんとなく、想像できます。
どういう生活をなさっているのでしょう。
お年は召していても、きちんとした身なりで歩いている御婦人が、
乙山の近所ではわりと多いような気がします。

No title

今、猛烈に「香奈里屋」に行きたくなっています!
これはもう読むしかないですね、この本を(笑)
ところで芦原すなお氏の『ミミズクとオリーブ』シリーズは
読まれましたか?(かなり昔の作品ですが)
別名「キッチン・ディティクティブ」シリーズ(笑)
主婦が夫の友人の警部から依頼を受け、難事件を推理して
解決する短編シリーズものですが、この作品もさり気に
料理描写が巧い!
お惣菜風のものばかりですが、そそられること請け合いです♪

Re:zumiさん

zumiさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
推理小説のあり方は色々で、好みに合うかどうかは
読んでみないとわからない、というところが面白いですね。
「香奈里屋」の居心地がzumiさんにとってよければいいのですが。

芦原すなおは『青春デンデケデケデケデケ』しか読んでいません。
『ミミズクとオリーブ』シリーズ、なんか面白そうですよ!
キッチン探偵、とはそのものずばりで、いいじゃないですか。
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只野乙山

Author:只野乙山

⚫︎ できれば「只野乙山=ただのおつざん」とお読みくだされば、と思います。

⚫︎ 文字中心のウェブログ。ほとんど一話完結で、どの記事をご覧になっても楽しめ(?)ます。文字数だけなら一冊の本に匹敵(凌駕?)するほどありますので、ごゆっくりどうぞ。

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