須賀敦子 『ミラノ 霧の風景』

須賀敦子 『ミラノ 霧の風景』 白水社 (1990)

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イタリアといえばスパゲッティとオリーヴオイル、トマトソースとファッション関係のことぐらいしか思い浮かばないけれど、須賀敦子『ミラノ 霧の風景』(白水社、1990)を読むと、少しだけイタリアが近くなったように思えてくる。むかし何かで触れたイタリア関係のあれやこれやの固有名詞が出てくるのもなんだか懐かしい。

筆者はイタリアに留学して現地でイタリアの人と結婚し、10年以上かの地で過ごした経歴を持ち、日本の作家をイタリア語訳したアンソロジーを出版する際の翻訳者として活躍した人である。イタリア人の夫が亡くなった後、帰国して大学で教鞭をとりながらエッセイの執筆もした。本書は1985年から89年まで、とあるイタリア企業の日本支社の広報誌に連載されたものをまとめて出版されたという。

イタリア在住当時の記憶を辿りながら進められていく筆の平明さ、飾り気のない読みやすさにページが進む一方で、高い教養に裏打ちされた話題の豊富さに思わず唸らされる。ボッカッチョ、ジャン・バッティスタ・ヴィーコ、ベネデット・クローチェ、ペトラルカ、イタロ・カルヴィーノやエリオ・ヴィットリーニなど、名前だけは聞いたことがある有名人(?)がぽろぽろ出てくるあたりがすごいところ。

「霧の町」ミラノでは近ごろ霧が少なくなったこと、舞台としての町ヴェネツィア、「ナポリを見て死ね」をめぐるナポリ探訪など、筆者にゆかりのあるイタリアの都市が綴られる一方、「コルシア・デイ・セルヴィ書店」の友人たちの回想が一つ、二つと挿入されていて、なかでも「ガッティの背中」と題された一章が印象に残る。

出版社の編集スタッフが本業で、コルシア書店には空いた時間をボランティアみたいな形でかかわり、筆者との付き合いの深かったガッティは才気にあふれた冗談好きの男だったが、年を経るごとに次第に変わってゆき、愚痴っぽく、疑い深くなっていった。そしてついにイタリアの友人からの手紙で、ガッティが一人で暮らせなくなり、入院することになったと知り、翌年筆者がガッティを訪ねていくが、彼はアルツハイマー症候群が進んで筆者のことも見分けがつかなくなっていた。ちょっと引いておきましょう。

ムスタキのかわりにレナード・コーエンをくれたガッティ、夫を亡くして現実を直視できなくなっていた私を、睡眠薬をのむよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだ、と私をきつくいましめたガッティは、もうそこにはいなかった。彼のはてしないあかるさに、もはや私をいらいらさせないガッティに、私はうちのめされた。(「ガッティの背中」 須賀敦子 『ミラノ 霧の風景』 白水社、1990年に所収)

まことに平明で読みやすい、どこといって特徴があるわけではないのに、その文章から感じられるのは情と知が見事に織り合わさった奥ゆかしさ、とでもいうべきものだろうか。文字の集合体としては他の書かれたものと同じなのに、あの奥ゆかしい感じはいったいどこから来るのだろう。


【付記】
● 乙山が読んだのは単行本ですが、現在では白水社Uブックスから新刊本が出ているようです。
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No title

たとえば作品ごとに筆調が違っても、その作者の「巧さ」は伝わりますものねぇ・・・
あえて言葉にすれば
「筆者の思いを他者に理解しやすく伝えられ、しかも筆者流に表現出来ている」か?
まぁそれも目安のひとつに過ぎませんが(^^;)
とにかく、良い文章に出会えた時のヨロコビはたまらないですよね♪

こんばんは。


昨日コメント入れたつもりなんですが、
送り損ねてしまったようですね。もう一度書きますね。

須賀敦子さん。『ミラノ 霧の風景』読みました。
本当に気負いのない、でも流れるような文章でしたね。
ああ、いいなあ。私もこういうふうに、住んでみたいなあと思ったのを
思い出します。

須賀敦子さんファンは、そのお人柄の故でしょうか、
今もたくさんいらっしゃいますね。

Re:zumiさん

zumiさん、コメントありがとうございます。
この人(須賀敦子さん)の文章はいいですよ。
なかなかこういうふうにはいきません。
おのれの修行不足を感じます。

Re:彼岸花さん

彼岸花さん、コメントありがとうございます。
須賀敦子さんの文筆活動期間は短くて、
亡くなったのが本当に残念な方でしたね。

乙山もできるだけ平明に、
わかりやすく書こうと心がけていますが、
まだまだ衒いがのこっていていけません。

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只野乙山

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