レイモンド・チャンドラー 『長いお別れ』

レイモンド・チャンドラー 『長いお別れ』 清水俊二訳 ハヤカワ文庫 (1955:原作初出年)

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1980年代の初頭、本屋で何を探すともなく背表紙を追っていたとき、まるでそれに吸い寄せられるようにある一冊の本が目に留まった。題名は『ハードボイルド風に生きてみないか』で、著者は生島治郎とあった。チラッとみただけでなんだか面白そうで、内容をろくに確かめもしないで支払いカウンターに持っていった、と思う。その本の中で、とくに印象に残ったのが、レイモンド・チャンドラーだった。そんなふうにして手に取ったのが『長いお別れ』である。

私立探偵フィリップ・マーロウが、泥酔した青年テリー・レノックスを救ったことから二人は知り合いになるのだが、大富豪の末娘シルヴィアと結婚していたテリーは過度のアルコール摂取や仕事がうまくいかないことなどで離婚していた。マーロウが再びテリーを見かけたとき、彼はまたもや泥酔して警官たちに取り囲まれ、すぐにでも留置所に放り込まれるところだった。テリーに以前の礼儀正しさは見る影もなく、乱れた髪に伸ばした髭、服はそれこそよれよれになっていた。そこでもマーロウは彼を見捨てておけず、警官と揉めそうになりながらも彼を救出した。

そうしたことがきっかけとなって、マーロウとテリーは共に酒を飲むようになる。どうやらテリーはシルヴィアとよりを戻したらしく、酒もほどほどに飲む程度に抑えているようだった。テリーは以前の礼儀正しさを取り戻し、二人は何度か静かなバーでギムレット(ジンにライム・ジュースを入れてシェイクしたカクテル)を飲む。このギムレットが後で重要な意味を持ってくる。ご存知の方も多いと思うが、あの例の台詞につながるわけですね。

一ヵ月後のある早朝、ベルの音に目覚めたマーロウがドアを開けると、そこには拳銃を手にしたテリーがいて、どうしてもメキシコへ行かなくてはならない、という。カリフォルニアとメキシコの国境まで車で送ってほしい、というテリーに、マーロウは何か事情があるとしても、それを自分に言わないでもらいたい、と返す。なんだかんだいいながら、結局マーロウはテリーを信じて、彼を国境の町まで送り届け、お別れをする。

レイモンド・チャンドラーの魅力は、なんと言っても会話の妙、というか「気の利いた台詞」だと思う。マーロウの台詞がいい、というのは主人公だから当たり前かもしれないが、チャンドラーは本作でテリー・レノックスやリンダ・ローリングにもなかなか気の利いた台詞を言わせている。そもそも、ギムレット云々の、あの例の台詞はマーロウではありません。テリーの台詞をちょっと引いておきましょう。

「わかってるよ。ぼくは弱い人間だ。度胸もなく、野心もない。真鍮の指輪を捜しあてて、金じゃなかったことに驚くような人間だ。ぼくのような人間は一生のあいだに一度、すばらしい機会に恵まれる。一生に一度は空中ぶらんこですばらしいスイングをやって見せる。それから後は舗道から下水に落ちないようにして一生を過ごすんだ」(レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』清水俊二訳 ハヤカワ文庫)

チャンドラーの文体のもうひとつの特徴は、しばしば使用される直喩(明喩)にあると思う。たとえばこんな具合です。

1:「そうなの」娘の態度がアイスクリームのように冷たくなった。(同書)
2:「酔っ払うと、イギリス人みたいに言葉がていねいになるのよ」と、彼女はステンレス・スティールのような声でいった。(同書)

直喩の名人といえばO・ヘンリーを思い出すが、チャンドラーの直喩もなかなか笑えます。いえね、上述の部分が「笑える」といいたいのではありませんよ。ここまできて思い出す人はいませんか? そう、村上春樹です。たぶん彼はチャンドラーが大好きだったんじゃないだろうか。清水俊二訳のチャンドラーものには傍点がよく付けられていて、これは原文ではたぶんイタリックになっていると思うんだけど、初期の村上春樹作品もわりと傍点が付けてあったりして思わず微笑んでしまう。『羊をめぐる冒険』あたりを読んでいただくと、チャンドラーの影響を受けていることがわかるのではないかと思う。なにしろ彼自身で「ロング・グッドバイ」(早川書房)を翻訳するくらいですからね。


【付記】
● 『長いお別れ』と『羊をめぐる冒険』の類似性にかんしては、乙山だけが適当にわめいているわけではなくて、たとえば高橋源一郎が『一億三千万人のための小説教室』で指摘しています。同書ではチャンドラーと村上春樹双方の引用をして、わかりやすく論じていますので、興味のある方はお読みになるといいでしょう。

● 生島治郎『ハードボイルド風に生きてみないか』という本は本当に存在します。ちゃんとウェブでも確認しました。だけど新刊ではどうかなあ。いま手元にあれば、と思うのですが、いつのまにか紛失してしまったのです。
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No title

チャンドラーといえばハードボイルド、
生島治郎もハードボイルドですね。
といっても、これまた名前だけで読んだことの無いものシリーズです。

それにしても、こういう気の利いたセリフは欧米人に似合いますね。

Re:RSさん

RSさん、コメントありがとうございます。
生島治郎はあまり読んでいないのですが、
チャンドラーは9冊持っています。

たぶん手に入る文庫本はすべて買ったんじゃないかと思います。
チャンドラーはいいですよ。
ただ、気障っぽいところが気になる人は向かないかも。
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