『サクリファイス』
『サクリファイス』(1986年、スウェーデン映画、149分)
原題:Offret(The Sacrifice)
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:エルランド・ヨセフソン、スーザン・フリートウッド、アラン・エドヴァル、スヴェン・ヴォルテル、グドルン・ギスラドッティルほか
原題:Offret(The Sacrifice)
監督:アンドレイ・タルコフスキー
出演:エルランド・ヨセフソン、スーザン・フリートウッド、アラン・エドヴァル、スヴェン・ヴォルテル、グドルン・ギスラドッティルほか
以前テレビでアンドレイ・タルコフスキー監督のドキュメンタリー番組があり、家が燃える映像がとても印象に残ったのを覚えている。それが『サクリファイス』という映画の場面であることを知ったけれど、レンタルメディア店に置いてないし、DVDの販売もなかった(と思う)ので見たくても見ることができなかった。この度、レンタルメディア店の企画コーナーでタルコフスキー映画を三本見つけたときはうれしくて仕方がなかった。
現在(2016年1月)、DVDやブルーレイ・ディスクでの販売も行っているようだから、ファンの方はこの際、タルコフスキー映画のまとめ買いをしておくのをお勧めする。と言って自分がまとめ買いをするかどうか怪しいもので、やはり自分はタルコフスキーの「隠れファン」でしかないんだろうな、と思う。舞台はスウェーデンのゴットランド島で、宮崎駿『魔女の宅急便』のモデルというかロケ地であるという。だが住宅が密集する市街地ではなく、海岸沿いにぽつんと離れて立つ一軒家を中心に話が進んでいく。
元舞台俳優だったアレクサンダー(エルランド・ヨセフソン)と妻アデライデ(スーザン・フリートウッド)、息子と娘の四人家族で、通いの家政婦ジュリアとマリアたちと暮らしている。その日はアレクサンダーの誕生日で、郵便局員のオットー(アラン・エドヴァル)や医者ヴィクトル(スヴェン・ヴォルテル)らを招いて誕生パーティーが開かれることになっていた。
人々が居間に集まってテレビを見ていると、突然「核戦争が起こって非常事態になった」というニュースが入り、直後に停電が起こって外部との連絡が取れなくなってしまい、皆はパニック状態になってしまった。それまで神を信じなかったアレクサンダーだが、「自分の所有するものはすべて神の犠牲にささげるから世界を救ってほしい」と初めて神に祈る。
郵便局員オットーから「家政婦のマリアはじつは魔女であり、彼女と交わらなければ世界は救われない」と聞き、医者のヴィクトルの鞄から拳銃を取り出し、マリアの家に向かう。マリアは困惑しながらも、どうか世界を助けてほしい、と自分のこめかみに拳銃を当てながら必死に懇願するアレクサンダーを受け入れる。
とまあ、途中まではそんな感じなのだが、冷静に考えると何たる荒唐無稽、たかが一人とその家族が犠牲になることで核戦争をなかったことになんて……そう、絵が好きだった一人の男がある政党の党首になってその後行った数々のことも、民間人相手に大量破壊兵器が実際に使われてしまったその時も、世界で最も知られたロック・グループの元メンバーがファンの一人に撃たれるその瞬間さえも、神は……
なるほど確かに荒唐無稽な話ではある。だけどそんなふうに虚無的に否定してみても仕方がない。信仰の対象や形式、教団の実態はこの際問題ではない。おそらく、なにかを信じるという行為そのものの力が大切なのであって、例えば「愛」や「希望」を決して捨てずに信じ、それらが心の中で灯っている限り、それが、いやそれだけが人を導き、人を生かし続けることができるのではないか。共産主義下のロシアでは、それを表現することが困難だったのではないかと想像する。
タルコフスキー映画なので、やはり退屈に感じてしまう人もいるかもしれないが、『サクリファイス』にはタルコフスキー作品すべての中でもベスト・ショットと言える、ある場面が出てくる。カメラが本当にゆっくり引いていくあの場面で、見たことがある人は「ああ、あの場面ね」と思い浮かべることができると思う。とにかく、その瞬間言葉を失ってしまうほどで、なぜか心が洗われるような不思議な感動がじわっと押し寄せてくるのがたまらない。これはもう、しばらく心の中で寝かせておいて「熟成」したら、また見たくなってしまう映画である。
タルコフスキーの映画を見て何が言えるか、そんなことは思いもよらないけれど、続けて何本か見た以上、少しだけ語ってみたいと思う。もし、『ソラリス』が「愛」で、『ストーカー』が「希望」だとしたら、『サクリファイス』は「祈り」ではないかと思う。人知を超えたあまりにも大きな力が動いたとき、人間にできるのはもはや何かに「祈る」ことだけである。たとえどれだけ信仰から離れていたとしても、いざという時に自分にできることは、おそらく「祈る」ことくらいしかないのではないか。心底からそんなことを思った。
現在(2016年1月)、DVDやブルーレイ・ディスクでの販売も行っているようだから、ファンの方はこの際、タルコフスキー映画のまとめ買いをしておくのをお勧めする。と言って自分がまとめ買いをするかどうか怪しいもので、やはり自分はタルコフスキーの「隠れファン」でしかないんだろうな、と思う。舞台はスウェーデンのゴットランド島で、宮崎駿『魔女の宅急便』のモデルというかロケ地であるという。だが住宅が密集する市街地ではなく、海岸沿いにぽつんと離れて立つ一軒家を中心に話が進んでいく。
元舞台俳優だったアレクサンダー(エルランド・ヨセフソン)と妻アデライデ(スーザン・フリートウッド)、息子と娘の四人家族で、通いの家政婦ジュリアとマリアたちと暮らしている。その日はアレクサンダーの誕生日で、郵便局員のオットー(アラン・エドヴァル)や医者ヴィクトル(スヴェン・ヴォルテル)らを招いて誕生パーティーが開かれることになっていた。
人々が居間に集まってテレビを見ていると、突然「核戦争が起こって非常事態になった」というニュースが入り、直後に停電が起こって外部との連絡が取れなくなってしまい、皆はパニック状態になってしまった。それまで神を信じなかったアレクサンダーだが、「自分の所有するものはすべて神の犠牲にささげるから世界を救ってほしい」と初めて神に祈る。
郵便局員オットーから「家政婦のマリアはじつは魔女であり、彼女と交わらなければ世界は救われない」と聞き、医者のヴィクトルの鞄から拳銃を取り出し、マリアの家に向かう。マリアは困惑しながらも、どうか世界を助けてほしい、と自分のこめかみに拳銃を当てながら必死に懇願するアレクサンダーを受け入れる。
とまあ、途中まではそんな感じなのだが、冷静に考えると何たる荒唐無稽、たかが一人とその家族が犠牲になることで核戦争をなかったことになんて……そう、絵が好きだった一人の男がある政党の党首になってその後行った数々のことも、民間人相手に大量破壊兵器が実際に使われてしまったその時も、世界で最も知られたロック・グループの元メンバーがファンの一人に撃たれるその瞬間さえも、神は……
なるほど確かに荒唐無稽な話ではある。だけどそんなふうに虚無的に否定してみても仕方がない。信仰の対象や形式、教団の実態はこの際問題ではない。おそらく、なにかを信じるという行為そのものの力が大切なのであって、例えば「愛」や「希望」を決して捨てずに信じ、それらが心の中で灯っている限り、それが、いやそれだけが人を導き、人を生かし続けることができるのではないか。共産主義下のロシアでは、それを表現することが困難だったのではないかと想像する。
タルコフスキー映画なので、やはり退屈に感じてしまう人もいるかもしれないが、『サクリファイス』にはタルコフスキー作品すべての中でもベスト・ショットと言える、ある場面が出てくる。カメラが本当にゆっくり引いていくあの場面で、見たことがある人は「ああ、あの場面ね」と思い浮かべることができると思う。とにかく、その瞬間言葉を失ってしまうほどで、なぜか心が洗われるような不思議な感動がじわっと押し寄せてくるのがたまらない。これはもう、しばらく心の中で寝かせておいて「熟成」したら、また見たくなってしまう映画である。
タルコフスキーの映画を見て何が言えるか、そんなことは思いもよらないけれど、続けて何本か見た以上、少しだけ語ってみたいと思う。もし、『ソラリス』が「愛」で、『ストーカー』が「希望」だとしたら、『サクリファイス』は「祈り」ではないかと思う。人知を超えたあまりにも大きな力が動いたとき、人間にできるのはもはや何かに「祈る」ことだけである。たとえどれだけ信仰から離れていたとしても、いざという時に自分にできることは、おそらく「祈る」ことくらいしかないのではないか。心底からそんなことを思った。
【付記】
あの例の場面だけでも(おいおい)見る価値がある『サクリファイス』ですが、じつはもう一つ、『ソラリス』でも見られるあの「空中浮遊」が出てくる場面もあるんです。見るたびに、どうやって撮ったんだろう、と首を傾げざるを得ない仕上がりでした。
あの例の場面だけでも(おいおい)見る価値がある『サクリファイス』ですが、じつはもう一つ、『ソラリス』でも見られるあの「空中浮遊」が出てくる場面もあるんです。見るたびに、どうやって撮ったんだろう、と首を傾げざるを得ない仕上がりでした。
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