『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビアニメ版)

『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビアニメ、リニューアル版、レンタル用DVD全8巻)

NeonGenesisEvangelion_TV.jpg
原作:GAINAX
監督:庵野秀明
脚本:庵野秀明
キャラクターデザイン:貞本義行
声の出演:緒方恵美、林原めぐみ、三石琴乃、宮村優子、山口由里子ほか


忘日、レンタルメディア店でまたぞろ映画を借りようとしていたのだが、2本はすでに決まっており、後どうしようかな、ということになったとき、何かアニメでも見ようかという気になった。『ヤマト2199』が良かったからだと思うけど、特に見たいものはなかった。だが、以前から名前だけは知っていた『エヴァンゲリオン』を思い出し、レンタル用DVDの1、2巻をつかんだ。

数話見て感じたのは、敵は「使徒」らしいのだが、彼らが何者で、どこから、何のために来るのかよくわからないし、使徒を操る「悪の組織」みたいなものが不在であることだ。単純明快な「善と悪の対決」という構図になっていないのが不思議なところで、使徒と戦う超法規的組織「ネルフ」がどうやって生まれたのか語られるのは終盤近くの第21話なのだ。とにかく第一印象は「よくわからない」だった。

普通のアニメだったら、正義=格好良いデザインで、悪=グロテスクなものと相場は決まっているはずなのだが、『エヴァンゲリオン』では敵の使徒のデザインがどこかユーモラスなものに感じられ、むしろエヴァ初号機のほうがどこか怖い感じがする。それに、なんで敵に使徒(英語では apostelではなく angel があてられている)という名前が付けられているんだろう。そもそも「使徒」とか「天使」は「神」の使いだから、それらと戦うって、つまりエヴァンゲリオンを使ってネルフが戦っている本当の敵って……

エンディング曲はジャズの "Fly Me to the Moon" が一貫して使われているのだが、これがボサノヴァ調だったり、ジャズ調だったりして、その回の内容に合わせて少しずつ変更した別ヴァージョンが使われている。この雰囲気はどうみてもお子様相手じゃないですね。少年(中高生?)向けアニメの体裁をとりながら、じつは『宇宙戦艦ヤマト』と『ガンダム』を見た世代、20~30歳(またはそれ以上)が本当のターゲットじゃないかと思う。

主人公は碇シンジという少年で、父親はネルフ司令官、母親はすでに亡くなっている。親戚に預けられて育つシンジは、父親に捨てられたという思いを抱いている。気弱で内向的、非社交的な少年が、いきなりネルフ本部に連れてこられて奇妙なロボットに乗って、恐ろしい敵と戦え、と言われるのだ(!)。そりゃ、引きますわなふつう。引き込まれ型のアンチ・ヒーロー、ということなんだろうけど、シンジの反応は無理もないだろう。

そのシンジが、ネルフ上司の葛城ミサトと同居することになり、後に2号機パイロットのアスカもそこに加わり、学校の同級生たちと交流することによって次第に心を開いて成長していく姿を描く、というのがたぶん本筋で、そこにどこか人間離れした0号機パイロットの綾波レイへの淡い恋心も添えられていき、視聴者を引っ張っていく。第1~16話まではどこかコミカルな感じも入っていて楽しく見ていられるが、17話から後はシリアスな展開になっていく。

話が進むにつれて少しずつ情報が開示されていくのだが、本当の敵はだれなのか、全貌はいったいどうなっているのか、それらについてはついぞ語られず、多くの謎を残したまま、25話、最終話を迎える。視聴者はミサトや加持と一緒にセカンド・インパクトの真相、ゼーレとネルフ(碇ゲンドウ)の真の目的を探っているのであり、謎解きゲームとしても楽しめる(実際にはヒントが少なすぎるのでゲームは成立しない)内容なのだが、最後でついに、今までわからなかった「謎」が解明されるというのだろうか?

だが問題の25話、最終話はご存知のようにシンジの内面世界を描いたもので、外で何が起こっているのか、まったくわからないのである。「人類補完計画」と「サード・インパクト」の実態、そして「世界は最後にどうなったの?」などがまったくわからないまま「おめでとう、さようなら、ありがとう」で終わり。もちろん、全貌の謎解きがあるわけでもなく、シンジ達がその後どうなったのか、などもわからないまま本当に終わってしまうんですよね。

ううむ、まいったなあ。このエンディング、色々小出しにした「アダム」とか「ロンギヌスの槍」、「ネルフの地下の巨人」をはじめとした伏線が回収できず、謎が残りすぎたんじゃないだろうか。制作スケジュールが詰まってしまったのか、予算の問題をクリアできなかったのか真相は「藪の中」なんだけど、世の中ではこういうのを「破綻」というんじゃないのかな。テレビアニメ版『エヴァ』は、なんだかよくわからない話が本当にわからないまま終わってしまったアニメ、と言えるでしょう。

衝撃のエンディング、とか言われたそうだけど、テレビアニメだから良かったものの、映画だったらブーイングの嵐になっていただろう。終わりのない、いろんな解釈ができる最終部分なんだろうけど、なんだか納得できないものを感じた。残念に思うのはトウジを3号機パイロットにした結果、学園ドラマを封じるしかなく、16話までの雰囲気を継続できなかったこと。ここは微妙な所で、「後半の陰鬱な展開こそエヴァンゲリオンだ」と感じる人も少なくないだろう。

だが「本当のエヴァ」とは全体なので、軽妙な前半なくしては「エヴァ」にはならないと思う。それにしても「全貌」をつかむには情報の少なさは致命的で、回収できなかったのか、意図的に隠したのか真相はわからないが、与えられた情報だけで全貌を類推するのは不可能。ところが、その「わからなさ」がかえって魅惑的なものを生む求心力になっているようで、「解釈の多様性」とか「知りたがる者」と「語りたがる者」をたくさん生み出したのだと想像する。

『エヴァンゲリオン』が社会現象になったのは、まず作品自体に魅力があったことが大原則。つまらないものは広まらないでしょう。そして、あのエンディングに食いついた論議がテレビを通じて報道されたことで、『エヴァ』自体を知らない人たちまで認知度が高まった。またエヴァの「わかりにくさ」から発生した「知りたがる者」と「語りたがる者」の結節点としての「情報の共有=ネットワークの確立」が重要だったと思う。

アップルコンピューターのようなGUIを備えたWindows95の登場によって、それまで象牙の塔のようだった(DOSコマンドを使えないと話にならない)パソコン環境とネットワークの底上げが一気になされ、情報の共有が可能になった。ある事象が社会的になるには、不特定多数の「同時経験(テレビ≒マス・レベルのメディア)」あるいは「情報の共有と交換(ネット)」が不可欠で、おそらく『エヴァ』はこの二つを同時に満たす初めてのアニメ作品だったのではないか。

当時、泡沫経済の崩壊による金融関係機関の破綻が出始め、従業員の整理解雇が相次ぎ、新卒学生の就職は絶望的な状態の只中で、1$=79円台というものすごい円高が進んだ。そして阪神淡路の大震災が起き、さらにカルト教団による無差別殺人とその終末思想(ハルマゲドン)も世間を賑わしていたことも忘れてはなるまい。暗鬱たる社会の雰囲気を背景に、情報の共有と交換ができる土台が整おうとしているタイミングにちょうど同期するかのように、「世界の終わり」というテーマを内包する『エヴァンゲリオン』が登場したのだった。

なんか長くなったなあ。話は短めにしろよって思うんだけど、あと少しだけ言わせてもらうと、レイのシンジに対する心情の変化が急すぎる気もした。それまでシンジの言動にちょっと頬を染める程度だったのに、23話でいきなり「一緒になりたい」はいかにも唐突な感じがして、見ていて「えっ、そんなこと言うかなあ」とか思ってしまった。漫画化版ではそのあたりを実に見事に「補完」していて、無理のない展開だった。テレビアニメ版が原作で、漫画はあくまでその漫画化のはずなのに、漫画化版が原作でテレビアニメがその簡略版であるかのような、不思議な感じがした。


【付記】
● なんだかなあ、と思って漫画化版、いわゆる『貞本エヴァ』も電子書籍で購入し、思い切りどっぷりはまってしまいました。こちらは時間をかけ、テレビアニメ版と旧劇場版、カットせざるを得なかった部分を下敷きにしているだけあって、納得できるものを感じました。きちっと環が閉じている感じがするのです。

貞本エヴァにおける「父と子」の問題の扱い、アスカの復活の詳細、ミサトとの別れ、そしてレイとの最終部分で降る雪(レイ03のはずなのに「この顔で合ってる?」って笑顔でお別れ)……エンディングも良かったです。遺跡となったエヴァ、意外な出会い、そして最後にミサトのペンダントとともに未来に向かって歩むシンジ……心に残りました。


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『宇宙戦艦ヤマト2199』

『宇宙戦艦ヤマト2199』(DVD版、全7巻)

SpaceBattleShipYamato2199_01.jpg
原作:西崎義展
総監督:出渕裕
音楽:宮川泰/宮川彬良


もう数年前のこと、あの『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク作品が劇場公開されており、YouTubeで予告編の映像を見たとき、あまりの変わりように驚いてしまったのを覚えている。いわゆる「松本キャラ」が一掃されて全く違ったイメージになっていた。リメイク版『宇宙戦艦ヤマト2199』に多少の違和感を覚えたが、予告編を見ているうちに慣れてしまうのが不思議だった。

なんだか面白そうだな、と気になっていたけれど、DVDを買ってみるほどの思い入れはなかった。ある日、駅前のスーパーマーケット内にあるレンタルメディア店で映画を何本か手にしたとき、ふと『ヤマト2199』のことを思い出し、アニメコーナーに行ってみたら、あるではないか。全7巻あるけれど、第1巻だけ手にしてレジに向かった。

早速ノート型PCで見ると、やはり映像が圧倒的にきれいなのに驚く。登場人物たちはどうしても旧作と比べてしまうのだが、新しい世代ということでこれでもいいのかな、と思う。沖田艦長は違和感がないのだが、佐渡先生と徳川機関長はちょっと可愛らしすぎるんじゃないだろうか。それと、数名の頭髪がぴょんと立っているけど、あれはいったい何なんだろう。なんだかとても残念に思う。

一方、メカニックは旧作より細部まで作りこまれていて感心してしまう。おそらく3Dレンダリングも取り入れているのだと想像するが、現在のアニメーションはあまりにも鮮明でごまかしようがないんでしょうね。駆逐艦「ゆきかぜ」とかガミラス艦艇なども手抜きがなく細部まで描き込まれており、たぶんヤマト本体のパースペクティヴも正確なんだろうと思う。

『旧ヤマト』と『ヤマト2199』をうまく結び付けているのは音楽ではないかと思う。多少の編曲の違いはあるが旧作とほぼ同じ感じに仕上げられており、これは旧作で音楽を担当した宮川泰の御子息である宮川彬良によるもの。旧作でも音楽の秀逸さは際立っていて、テープレコーダーにテレビ放送の音声だけ吹き込んで何度も繰り返して再生して楽しんだ記憶があるほどだ。

SpaceBattleShipYamato2199_02.jpgその後、展開が気になって残りの巻も他の映画とともに借りて、すべて見てしまったことは言うまでもない。旧作では無理があるなあと感じていた部分がわりと修正されているのも見所で、旧作では森雪がレーダー係と看護婦および佐渡医師の補助、そして艦内生活の世話役とあまりの激務にちょっとなあ、と思っていた。本作では女性乗組員が増え、分担や交代制、自動操縦などが取り入れられたが、旧作では交代なしの出ずっぱりでしたからね。

また、「波動防壁」というのはいいアイディアだと思う。だいたい、旧作でヤマトは直撃弾を受けすぎているんですね。ふつうの艦だったら冥王星の「反射衛星砲」一発で沈みますよ。旧作「七色星団の決戦」でもヤマトが受けた直撃弾の多さからすると、やられないのが不自然。で、ドメル艦隊はドリルミサイル一発でほとんどが壊滅って……波動防壁のおかげでかなり不自然さが払拭されたように思うが、それにしても、たった一隻であれだけの艦隊を打ち破るというのはいくらなんでも……

旧作及び『2199』におけるドメル艦隊についてもう一言だけ言わせていただくと、ドメル戦法はなんだか姑息な手段のように思えるかもしれないが、ドメルは波動砲の存在を知っていたのであり、艦隊同士の直接対戦なら、決定打に欠くドメル艦隊は明らかに不利なのであって、どうしても「姿を隠したうえでの機動攻撃」という作戦を取らざるを得なかったのではないだろうか。敵の波動砲を封じるのを第一とし、対抗する武器として「物質転送機」を導入したのもわかる気がする。

そして、「亜空間ゲート」という短絡手段を入れたのも良かった。あれで航路の大幅な短縮が可能になったのだし、ガミラスの主力艦隊を置き去りにできた、という設定も可能になったのだろう。それがなかったら、またしてもヤマト一隻で膨大なガミラス艦隊を打ち破るというありえない筋書を逃れるわけにはいかなかっただろう。旧作当時と『2199』制作時ではコンピューターの進歩に格段の違いがあるのだが、コンピューターの扱いも不自然さを感じないようにできている。

とにかく『宇宙戦艦ヤマト2199』には旧作に対する深い愛情と尊敬を感じた。セリフが抑制されているのも良く*、無駄なシークェンスも少なくて、総監督のセンスの良さがわかるいい出来だ。せっかくのリメイクだからそのままでは面白くないはずだし、見ていて「おおっ、そうきたか」と思わず感心した場面も数知れず、旧作の熱心なファンの方にもお勧めできるものではないかと思う。ただ、返す返すも残念なのは、あの変な、頭からぴょんと飛び出た髪の毛である。

*例えば、旧作で有名な森雪の台詞「古代君が死んじゃう!」というのがありますが、思わず「ユキよ、死ぬのは古代君だけじゃないんだぞ」とかツッコミを入れたくなりますよね。

【付記】
● 旧作と『2199』のいちばん大きな違いは何といっても「見た目」ですが、なあに、見ているうちに慣れてしまいますよ。『2199』の出来はいいものだと思いますが、これによって旧作の価値が減じた、などと言うことはいささかもありません。あれはあれで良いもので、また別の味わいがあるのではないでしょうか。じつは旧作もYouTubeでほぼ全編を見てしまって、やっぱりいいなあ、と思ったのです。


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レイモンド・チャンドラー『プレイバック』

レイモンド・チャンドラー 『プレイバック』 (1977年、清水俊二訳、ハヤカワ文庫)

RaymondChandler_PlayBack.jpg
今回は久しぶりにレイモンド・チャンドラーを読んでみた。その遺作である『プレイバック』(1958)が本棚にあったのでつい手にとってしまったのだ。例によって(?)依頼の電話から話が始まる。弁護士のクライド・アムニーと名乗る横柄な男がいうには、8時にロサンゼルス駅を出る特急列車に乗っている女(エレナー・キング)を見つけて尾行し、報告してもらいたい、と。内容がよくわからぬマーロウは渋るが、アムニーの秘書ヴァーミリアの顔を立てることにして駅へ向かう。

駅で女はほどなく見つかり、マーロウは女がコーヒー店で一人の男と向かい合って座っているのを見る。どうやら女は男と一緒にいるのが愉快ではないようなのがわかったが、男が何かの紙切れを女に見せると、女の態度が一変した。男は紙切れをいじりながらニヤニヤして話を続けているが、女は困惑しながらも半ば腹が立っている。どう見ても、これはゆすり(脅迫)の類に違いなかった。

女は列車を降り、タクシーに乗った。マーロウもタクシーで女を追う。着いた町はエスメラルダで、マーロウは女の元夫を装い、ホテルで女の隣の部屋をとらせてもらうが、女はベティ・メイフィールドという名前を使っていた。やがて女の部屋に男が来て話すのをマーロウは盗聴する。どうやら、コーヒー店で女と話していた男のようだ。男はラリーという名前で、女から幾ばくかの金を借りた。

ラリーが立ち去った後、マーロウは女の部屋を訪れる。自分が私立探偵であることを明かすが、当然のことながらベティは警戒の姿勢。ベティと話をしていると、いつの間にやらラリーが帰ってきて、マーロウとラリーは殴り合いとなる。マーロウはラリーをのしてやることができたのだが、ベティはウィスキーの瓶でマーロウの後頭部を打ちつける。

とまあ、5章まではそんな感じであるが、読んでみて思ったのは本筋とはあまり関係のない部分がわりとあるということだ。たとえば、17章のヘンリー・クラレンドン氏の話や、20章のフレッド・ホープという男の話など、まったく省いたとしても差し障りのない部分ではないかと思った。なんでこういうのを入れたんだろう、と不思議に思った部分である。

それからもう一つ。それまでのマーロウの女性に対する姿勢は、彼女たちから距離を置いたもので、かなり抑制のきいたというか、どこか禁欲的なものさせ感じさせるようなものだったように思う。それからすると、この『プレイバック』のマーロウは積極的すぎるような気がしないでもない。少し引いておきましょう。

「あなたを愛してるんじゃないのよ」と、彼女はいった。
「愛してなくてもいいじゃないか。そんなことを考えるのはよそう。素晴らしい瞬間だけを楽しめばいいんだ」(レイモンド・チャンドラー『プレイバック』第13章より)

ね、どうです? とてもあのフィリップ・マーロウの科白とは思えぬものを感じたのは私だけだろうか。だけど個人的にはマーロウの言い分におおいにさんせ……ちがうちがう! そうじゃなくて、女性に対する態度や姿勢が、少し変わってきたんだな、ということだった。『プレイバック』には『長いお別れ』に出てきたあの女性が、再び登場するんですね。これがひょっとすると『プレイバック』という題名と関係するのかもしれない。

全体の筋からすると、『プレイバック』という題名は、内容と何の関係があるのかよくわからない。そもそも「プレイバック」というのは録音、録画したものを「再生」することをいうのだと思う。筋の中でむかし起きた何かがもう一度繰り返されたのだろうか? そのあたりを注意して読んでみたけれど、つかむことはできなかった。

さてチャンドラーといえば、科白の格好よさが魅力で、本作にはあまりにも有名なあの科白が出てきます。例の「タフでなければ……」ですね。ひょっとするとご存知ない方もいらっしゃるかもしれないので引いておきましょう。原文は以下の通り。「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」(ウィキペディアより)

「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなにやさしくなれるの?」と、彼女は信じられないように訊ねた。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない』(同書、第25章より)

これを極めつけとして、本作にはまだたくさんの名科白が出てくる。お気に入りは、ベティが疲れたからベッドに寝ていい? と訊くところ。マーロウの返答がもう最高なんですね。そしてチャンドラーお得意のシミリー(直喩/明喩)もふんだんに使われているのも楽しい。題名や内容でいささか「?」の部分も多い『プレイバック』だが、チャンドラーのファンとしてはやはり外すわけのいかない一冊なんだと思う。


【付記】
● 『プレイバック』はやはり不思議というか不可解な部分の多い書ですね。チャンドラーの創作意欲の減退と関係があったかもしれません。いずれにしても、この不可解さは本書を紐解いていただくほかありません。


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生田耕作 『ダンディズム 栄光と悲惨』

生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』(1999年、中公文庫)

IkutaKozo_Dandyism.jpg
「ダンディ」とか「ダンディズム」という言葉はもうすでにじゅうぶん浸透し流通していると思うが、それはどこか滑稽味を帯びたもの、あるいは揶揄の対象として用いられることが多いのではないだろうか。ダンディ何某というお笑い芸人が存在していることが、何よりもそういった事情をよく表わしていると言える。

もう何年も前、ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーが来日してテレビ番組に出ていたとき、「ダンディですね」というのに対し、「ダンディではなく、ミスター・エレガンスと呼んでほしい」と返していたことも印象深い。上に述べたような「ダンディ」の流通ぶりは、どうやらかなり広い範囲にわたっているのではないだろうか。

ところが、そうはいっても「ダンディ」や「ダンディズム」にはいわく言い難いマグネティズムのような魅力があって、ばかばかしいとは言いながらも少しは(かなり)惹かれる部分がいまだにあるのではないか。今回読んだのは生田耕作による『ダンディズム』(1999)という文庫本だが、こういう題名の本が流通するということ自体、そういう事情を反映している証拠である。

本書はダンディやダンディズムの象徴的存在であるジョージ・ブライアン・ブランメル(1778-1840)の栄光をたどった「ボー・ブランメル」、その没落を描いた「落日の栄光」を始め、ブランメルと英仏の作家たちを述べた「ブランメル神話」、ブランメルと女性を書いた「冷たい偶像」などブランメル関係で半分以上が占められている。

残りはウィリアム・ベックフォード(1760-1844)の生涯をたどった「ウィリアム・ベックフォード小伝」、ブランメルにかんして論考を残しているフランスの小説家バルベー・ドールヴィイ(1808-1889)を論じた「老いざる獅子」、最後はダンディズム総論ともいえる「ダンディズムの系譜」で締めくくられている。

まあしかし、読めば読むほど自分がダンディとかダンディズムからいかにかけ離れているか、というよりむしろ無縁であるか、ということを実感せざるを得ない。その象徴的、伝説的人物であるブランメルは、最盛期であれば国王ジョージ四世よりはるかに影響力があったという。宴を開く際も、人々は国王よりもブランメルの出席を気にしていた、とあるほどなのだ。

だからこれは、一個人がちょっとお洒落をしてみました、などというレベルとはわけが違う。もしダンディたる基準をブランメルに定めるなら、この世にダンディはブランメルの他には存在しない、となってしまうのではないか。いくつかの条件を満たして人はダンディになるのではなくて、そうであるか、ないか、ということなのだろうと思う。

またダンディ=洒落者という一般的な認識から、ブランメルはよほど華美な服装をしていたのだろうと思うかもしれないが、本書を読む限り、ブランメルの服装はむしろ「地味」な部類に属するのが意外だった。飾りは懐中時計の鎖だけだったし、香水は用いない。ただし、ネック・クロス(ネクタイの原型)の結び方には意匠を凝らし、いくつもの「失敗作」ができたとある。

だから現在の男性服の原型はブランメルの時代に出来上がったものと考えていいだろう。19世紀も中頃になると写真術が登場し、その頃撮影された写真家ナダールによる肖像写真を見ると、フロックコートを除き、ほぼ現在と変わらぬスタイルであるのがわかると思う。社交界における男性服はブランメル流のスタイルが不文律になっていた、とあるので、男性服は未だにブランメルの影響を受けているのかもしれない。以下に本書から少し引いておきましょう。

「街を歩いていて、人からあまりじろじろ見られるときは、きみの服装は凝りすぎているのだ」(ジョージ・ブライアン・ブランメル)
「ダンディズムは、思慮浅い凡人どもが考えているような、身だしなみとか物質的優雅さとかに対する、無際限の好みではない」(シャルル・ボードレール)
「ダンディズムとは一つ在り方全体である。けだし人間は具体的に目に見える側面だけで存在するものではない」(バルベー・ドールヴィイ)

おそらくダンディズムとは生き方そのものにかかわる問題であり、自分自身を生きる芸術作品であるかのように体現しうる人物こそダンディである、ということになるのだろう。著者の生田耕作は京都大学仏文科の先生だった人で、奇書の紹介をしてそれが猥褻であるとのことで大学側ともめ、見限った後は独自出版をした希代の人物である。ウェブで画像を見ると、この人にしてこの本あり、と思った次第である。


【付記】
● 上にも白状した通り、乙山はダンディとかダンディズムとは無縁であるのは言うまでもありません。噛みつき無用でお願いします。


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松本零士 『蛍の泣く島』

Hotaru_no_Naku_Shima.jpg
「遊歩者 只野乙山」では漫画を記事にしていない(実際は「漫画は電子書籍で」という記事がある)が、漫画は大好きである。中学生の頃はちばあきおの野球漫画の真似をしてノートに漫画を描きまくり、漫画家になれたらいいなあ、などと思っていたくらいである。ところが高校生になると漫画より活字のほうが好きになり、いつの間にか漫画家になりたいという気持ちは失せていた。

いまでも漫画を読みたい気持ちはあるのだが、本棚に漫画があふれかえっている状態では困るので、漫画はすべて電子書籍版を購入することにしている。『銀河鉄道999』の続編とか、むかし読んだ松本零士の漫画短編集などをネットから購入してノート型PCで楽しんでいる。今回は松本零士の『蛍の泣く島』を久しぶりに読んでみた。

Sei_SarumataDen.jpg『蛍の泣く島』は漫画短編集で、初出は『ビッグコミック』に多く、同誌は『ゴルゴ13』や『カムイ外伝』などの大人向け漫画。なので多少エロティックな表現もあり、全部で11の短編が収められている。「蛍の泣く島」は、昆虫マニアの男が父親の残した「蛍の泣く島」があるという伝説をその目で確かめに行くというもの。

「聖女に白い血」はサイコロ賭博の女壺振り師が、足を洗って普通の主婦になる話。「皮の影159」は冴えない刑事が女の謀を見抜くミステリーもの。「さらばロマンの時よ」は人造ウィスキーの製造に生涯を賭ける男と、それに愛想を尽かす女の話。「下宿荘偉人伝」や「聖サルマタ伝」は、作者の代表作ともいえる『男おいどん』につながる大四畳半物語の片鱗を見せている。

MatumotoReiji_UgetuMonogatari.jpg「雨月物語」は上田秋成の原作あるいは溝口健二による映画からヒントを得た幻想的な作品。物の怪である県の真女児(あがたのまなこ)に旅の男が出会うが、彼は女を見るとすぐに乱暴を働く侍とは違った優しい心を持った男だった。真女児に乱暴を働いた男たちはみな精気を吸い取られ死んでいくが、旅の男は真女児と交わっても死ぬことはなかった。しかし僧侶に「死相が出ている」と告げられる。

「秘本絵師 無芸」は長屋に住む絵師で、いわゆる春画を描いて暮らしているが、なんだかんだと事件に巻き込まれ、春画を描くことで危機を乗り越えるというコンセプトや「俺はカキたいときにカク」という掛け言葉なども面白く、連作シリーズになったようだ。最後の「サケザン」は、あのターザンのもじりで、ジャングルに住んで猿酒を飲むサケザンが主人公。じつはサケザンには妻子があって、妻のミセス・サセソーネはよりを戻そうとサケザンを訪ねてくるが、サケザンは女より酒を選ぶ。

松本零士の世界における「女性」といえば、『銀河鉄道999』のメーテル、『クィーン・エメラルダス』のエメラルダス、そして『ヤマト』の森雪あたりを連想してしまうのだが、本作で作者は女性に対してかなり手厳しいと言える。「蛍の泣く島」では夫を殺した女と愛人を殺した女(ともに昆虫マニアの主人公を犯人に仕立てようとした)が出てくるが、彼女たちは「蛍の泣く島」で蛍に囲まれて焼け死んでしまうのだ。

Hihoneshi_Mugei.jpgまた「皮の影159」でもやはり夫(冴えない刑事の友人)を殺す妻が出てきて、冴えない刑事を罠にはめようとする恐ろしい女性として描かれる。「さらばロマンの時よ」では人造ウィスキー製造に没頭する男を女が裏切り、裕福な実業家になびく姿が描かれる。そして「哀れな女よ。お前に必要なのは何種類かのスペルマだけだ」とくる。

作者は女性を、非の打ちどころのない理想の女性として描く一方で、嘘と裏切りや背徳に満ちたおぞましい存在として描いているのだが、どうも後者には「もてない男の恨み節」が盛大に鳴り響いているような気がしないでもない。そう思いながら、だけど一部の女性にはそういう面もあるよなあ、なんていうか「げんきん」なんだよな、と同感してしまう自分もいることは正直に書いておこうと思う。


【付記】
● 画像は鮮明ではありませんが、漫画リーダーの画面を直接スクリーン・プリント(キャプチャー)することはできませんので、ノート型PCの画面をデジタル写真機で撮影するという原始的な方法をとらざるを得ませんでした。


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只野乙山

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⚫︎ できれば「只野乙山=ただのおつざん」とお読みくだされば、と思います。

⚫︎ 文字中心のウェブログ。ほとんど一話完結で、どの記事をご覧になっても楽しめ(?)ます。文字数だけなら一冊の本に匹敵(凌駕?)するほどありますので、ごゆっくりどうぞ。

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