生田耕作 『ダンディズム 栄光と悲惨』

生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』(1999年、中公文庫)

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「ダンディ」とか「ダンディズム」という言葉はもうすでにじゅうぶん浸透し流通していると思うが、それはどこか滑稽味を帯びたもの、あるいは揶揄の対象として用いられることが多いのではないだろうか。ダンディ何某というお笑い芸人が存在していることが、何よりもそういった事情をよく表わしていると言える。

もう何年も前、ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーが来日してテレビ番組に出ていたとき、「ダンディですね」というのに対し、「ダンディではなく、ミスター・エレガンスと呼んでほしい」と返していたことも印象深い。上に述べたような「ダンディ」の流通ぶりは、どうやらかなり広い範囲にわたっているのではないだろうか。

ところが、そうはいっても「ダンディ」や「ダンディズム」にはいわく言い難いマグネティズムのような魅力があって、ばかばかしいとは言いながらも少しは(かなり)惹かれる部分がいまだにあるのではないか。今回読んだのは生田耕作による『ダンディズム』(1999)という文庫本だが、こういう題名の本が流通するということ自体、そういう事情を反映している証拠である。

本書はダンディやダンディズムの象徴的存在であるジョージ・ブライアン・ブランメル(1778-1840)の栄光をたどった「ボー・ブランメル」、その没落を描いた「落日の栄光」を始め、ブランメルと英仏の作家たちを述べた「ブランメル神話」、ブランメルと女性を書いた「冷たい偶像」などブランメル関係で半分以上が占められている。

残りはウィリアム・ベックフォード(1760-1844)の生涯をたどった「ウィリアム・ベックフォード小伝」、ブランメルにかんして論考を残しているフランスの小説家バルベー・ドールヴィイ(1808-1889)を論じた「老いざる獅子」、最後はダンディズム総論ともいえる「ダンディズムの系譜」で締めくくられている。

まあしかし、読めば読むほど自分がダンディとかダンディズムからいかにかけ離れているか、というよりむしろ無縁であるか、ということを実感せざるを得ない。その象徴的、伝説的人物であるブランメルは、最盛期であれば国王ジョージ四世よりはるかに影響力があったという。宴を開く際も、人々は国王よりもブランメルの出席を気にしていた、とあるほどなのだ。

だからこれは、一個人がちょっとお洒落をしてみました、などというレベルとはわけが違う。もしダンディたる基準をブランメルに定めるなら、この世にダンディはブランメルの他には存在しない、となってしまうのではないか。いくつかの条件を満たして人はダンディになるのではなくて、そうであるか、ないか、ということなのだろうと思う。

またダンディ=洒落者という一般的な認識から、ブランメルはよほど華美な服装をしていたのだろうと思うかもしれないが、本書を読む限り、ブランメルの服装はむしろ「地味」な部類に属するのが意外だった。飾りは懐中時計の鎖だけだったし、香水は用いない。ただし、ネック・クロス(ネクタイの原型)の結び方には意匠を凝らし、いくつもの「失敗作」ができたとある。

だから現在の男性服の原型はブランメルの時代に出来上がったものと考えていいだろう。19世紀も中頃になると写真術が登場し、その頃撮影された写真家ナダールによる肖像写真を見ると、フロックコートを除き、ほぼ現在と変わらぬスタイルであるのがわかると思う。社交界における男性服はブランメル流のスタイルが不文律になっていた、とあるので、男性服は未だにブランメルの影響を受けているのかもしれない。以下に本書から少し引いておきましょう。

「街を歩いていて、人からあまりじろじろ見られるときは、きみの服装は凝りすぎているのだ」(ジョージ・ブライアン・ブランメル)
「ダンディズムは、思慮浅い凡人どもが考えているような、身だしなみとか物質的優雅さとかに対する、無際限の好みではない」(シャルル・ボードレール)
「ダンディズムとは一つ在り方全体である。けだし人間は具体的に目に見える側面だけで存在するものではない」(バルベー・ドールヴィイ)

おそらくダンディズムとは生き方そのものにかかわる問題であり、自分自身を生きる芸術作品であるかのように体現しうる人物こそダンディである、ということになるのだろう。著者の生田耕作は京都大学仏文科の先生だった人で、奇書の紹介をしてそれが猥褻であるとのことで大学側ともめ、見限った後は独自出版をした希代の人物である。ウェブで画像を見ると、この人にしてこの本あり、と思った次第である。


【付記】
● 上にも白状した通り、乙山はダンディとかダンディズムとは無縁であるのは言うまでもありません。噛みつき無用でお願いします。


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荻昌弘 『男のだいどこ』

荻昌弘 『男のだいどこ』 (2006年復刻版、原著は1972年)

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自分でそこそこ料理を作っているわけだから一応私(乙山)も「料理好き男子」ということになるのかもしれない。料理好きな男は料理本も読むのが好きである。そんなにたくさん読んできたわけではないが、以前読んでいいなあと思ったものに荻昌弘(かつて『月曜ロードショー』で解説をしていた人)の『男のだいどこ』(1972)がある。

引っ越しなどをしているうち、いつの間にか本棚から消えていた。いつかもう一度読みたいと常々思っていた『男のだいどこ』だが、Amazonで中古本が出ているではないか。それもなんと100円を切る値段。手数料や配送料が250円かかるけれど、それでも300円くらいの買い物である。ついふらふらと購入ボタンを押していた。できるだけ本を増やしたくないという気持ちもあるけれど、電子書籍になっていない本というのも多いものだ。

さて本が来ましたよ。今回もとめたのは2006年に光文社文庫から出版された復刻版。元の単行本は『別冊文芸春秋』に掲載された食にかんするエッセイをまとめ1972年に発行、その後1976年に文春文庫として出るのだが、私が読んだのはその文春文庫版だったように思う。帯も付いていて、中古本だけど書き込みもなく新品のような趣きである。*月の新刊、などという広告も入ったままであることから、一度も人の手に渡らなかったデッドストック品かもしれぬ。

1970~1988年代前半と言えば録画機もそれほど普及しておらず、テレビで映画を視聴することも多かったのではないかと思う。『日曜洋画劇場』(淀川長治)、『月曜ロードショー』(荻昌弘)、『水曜ロードショー』(水野晴郎)、『ゴールデン洋画劇場』(高島忠夫)の全国放送をはじめとして、ローカルでは『火曜洋画劇場』(サンテレビ:山城新伍)などもあり、それこそ毎日のように映画が放映されていたといっても過言ではない。

どれだけ見ていたかもうはっきり思い出せないくらいだが、荻昌弘の解説はどこか品があり、映画の展開がどうなるかという話の筋よりも、出演者にまつわるエピソードを紹介しながらかいつまんで話すようなスタイルだったのではないか。「サヨナラ」や「いやあ映画って……」のような決め台詞はなかったものの、印象に残る解説だったように覚えている。

『男のだいどこ』は筆者の言によると、次の二つに集約されるだろう。「私がここでいいたかった主題、それはたった二つである。ひとつは、食をかたり、食の実作に手をそめることは、男にとって、恥でもなんでもありはしないのではないか、という提言。いまひとつは、それにしては現今、われわれをとりまいている日常の市販食品は、何と、うさんくさいものではござらぬか、御同役、という問いかけである」(光文社文庫版『男のだいどこ』あとがきより)。

そうして筆者は自分で蒲鉾をつくったりソースを作ったりするのに精を出す。ローストビーフやハム、コンビーフも自家製にして「オリジン」に近い味を探る。かたや梅酒だけでなくイチゴ、パイナップル、スモモ、朝鮮ニンジン、コーヒー、紅茶などをかたっぱしから焼酎漬けにするため毎日焼酎を注文して酒屋を心配させるくだりなども面白い。

東京生まれの江戸っ子だけど、関西で仕事があるときはいそいそと出かけて京都の料理屋の女将に案内してもらって錦市場で買い物をするのが大好き、近所の市場やスーパーマーケットで買い物籠を手にぶらぶらするのも厭わぬ人なのだ。だが御自身は食通と言われるのを何より嫌ったそうで、偉ぶった物言いにはたいへん手厳しいところがある。少し引いておきましょう。

さる牛鍋屋老舗の若主人の気負った発言を、趣味の店PR誌でよんだ記憶がある。「いま、御家庭で皆さんがなさっているのは、ありゃ、すきやきじゃありません。あれは、野菜の牛肉煮で」。なるほどなァ、ソ言われてみりゃ、ウチで食ってるものもすきやきたァいえねえなァ、たしかに野菜煮だなァ、と感心する半面、こういうナマァいうやつの店には、今後一生、行ってやらねえ覚悟をきめた。牛のウマい店だが、きめた以上は、今もまもり通す。すきやきだろうと、野菜の牛肉煮だろうと、こちとらこれで、ウチじゃうめえうめえと食ってるんだ。てめえッちのしったことか、なんでえ、たかが牛鍋に目玉のとびでるような金とりゃァがって、と。(同書より)

そうなのです。『男のだいどこ』は有名店を食べ歩いてそれを紹介するという類のものではない。とはいえ、京都の例のすっぽん屋さんとか、南禅寺近くのあの料亭の名前も出てこぬわけではないが、それがいっとうおいしくて他のものは食えたものじゃねえ、というようなことでは決してない。文字通り、男子が厨房に入ってあれこれ格闘してみました、そして女房(カミさん)の協力なくしてはできなかった、と正直に書いている。ちょっと真似してみたくなるのも幾つかあって、たまに取り出しては読み返している。


【付記】
● 口語混じりのたいへん砕けた文章で、文庫版にする際、漢字を平仮名に改めた部分もかなりあるそうです。1960年代の終わり頃からすでにダイエットの話題があったのか、とか、すでにその頃からウナギや数の子が高騰していたのか、など妙に感心する箇所もあります。大阪万博の前後だったんですね。

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夏目漱石 「カーライル博物館」

夏目漱石 「カーライル博物館」(1905年『学燈』に掲載)

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トーマス・カーライル(1795-1881)という英国人のことをいつ知ったのかもう定かでないが、以前柄にもなく服飾関係のことを勉強していたときに、カーライルに『衣服哲学』という著作がある、ということなどを聞き及んだ際ではないかと思う。不勉強の徒であるゆえか、それを聞いたとてカーライルの『衣服哲学』を読んだわけではないのを正直に書いておこうと思う。

そのトーマス・カーライルが以前住んでいた邸宅が、夏目漱石ロンドン滞在時にはカーライル博物館として一般公開されていたようで、それを訪れたときの感想のようなものが「カーライル博物館」として残っている。1905年『学燈』に掲載とあるけれど、調べてみたところ『学燈』とは丸善のPR誌のようである。丸善の上得意客であったろう漱石だから、書店側の依頼によって執筆したのだろうか、などと勝手に想像してみたくなりますね。

ちなみに「カーライル博物館」で検索をかけてみると、「カーライル博物館に行ってきた」という内容のウェブページがいくつか散見されるので、今でもカーライル博物館は残っていて、夏目漱石が書いた建物や風景を確かめることができるようだ。フランス人の多くがアンリ・ファーブルを御存じないように、英国人の若い世代の人たちもトーマス・カーライルのことはほとんど知らないようである。

博覧強記の漱石のことだから、カーライルをしっかり読んでいて、彼の著作や人となりに敬愛の念を抱いていたであろうことが文章から伝わってくる。漱石がカーライルの邸宅を訪ねたのはカーライル没後20年以上経ってからである。世紀を越えて久しいが、今でも前世紀後半のことなどがつい最近のことのように思われるということは、漱石にとっても19世紀のことがやはりついこの間のことに感じられたことであろう。少し引いておきましょう。

 カーライルはおらぬ。演説者も死んだであろう。しかしチェルシーは以前のごとく存在している。否彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお厳然と保存せられてある。千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく今日まで昔のままで残っている。カーライルの歿後は有志家の発起で彼の生前使用したる器物調度図書典籍を蒐めてこれを各室に按排し好事のものにはいつでも縦覧せしむる便宜さえ謀られた。(ちくま文庫版『夏目漱石全集2』「カーライル博物館」より)

話は漱石がカーライル博物館を訪ねて見聞きしたものを書きながら、そこにカーライルにかんする自身の思いを書き連ねるもので、「倫敦塔」における鴉(カラス)とか、若い母親と子どもの幻視(?)のような仕掛けはなく、だから小説というよりはあっさりと書かれた見聞録のような趣きである。

一階、二階と案内者にしたがってカーライル邸宅を見物していくが、とうとう最上階に至る。そこはカーライルが書斎として使っていた屋根裏部屋のような所だが、漱石はカーライルの日記とか日常雑記のようなものまで読んでいたのか、この小さな部屋でカーライルがどんなことを考え、どんなふうに暮らしていたかを思い浮かべるのだ。

 かくのごとく予期せられたる書斎は二千円の費用にてまずまず思い通りに落成を告げて予期通りの効果を奏したがこれと同時に思い掛けなき障害がまたも主人公の耳辺に起こった。なるほど洋琴(ピアノ)の音もやみ、犬の声もやみ、鶏の声、鸚鵡の声も案のごとく聞えなくなったが下層にいるときは考えだに及ばなかった寺の鐘、汽車の笛さては何ともしれず遠きより来る下界の声が呪のごとく彼を追いかけて旧のごとくに彼の神経を苦しめた。
 声。英国においてカーライルを苦しめたる声は独逸においてショペンハウアを苦しめたる声である。
(中略。ショーペンハウアーの引用が入る)カーライルとショペンハウアとは実は十九世紀の好一対である。(同書)

こういう個所を読むと、やはり漱石は博学の人だなあと感心せざるを得ない。ドイツ哲学、たとえばカントやショーペンハウアー、ニーチェばかりでなく、フィヒテやシェリング、ヘーゲルまで読んでいたのではないかと思われる。実際、「思い出す事など」のなかではベルクソンについて言及しているほどなのだ。これを機会に、カーライルをなにか読んでみようかな、などと一瞬思った(だけ?)のでした。


【付記】
● つい先日、眼科に通院した際、待合室で「カーライル博物館」を読みました。時間にするともう十数分でしたが、それがどうして自室で出来なかったのか不思議でなりません。眼科では目薬をさして瞳孔を開き、眼の様子を撮影する検査や、視野の検査をしたのですが、治療が必要なレベルではないということで、どうやら無事放免ということになりました。しかしながら紫外線には気を付けないとなりませんので、今しばらくはサングラスの使用を続けるつもりです。

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tag : 夏目漱石

夏目漱石 「思い出す事など」

夏目漱石「思い出す事など」(1910年10月29日~翌年2月20日まで朝日新聞に掲載)

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夏目漱石は「門」執筆の後、胃腸病院に入院し、退院後の療養として伊豆の修善寺に滞在するが、そこで大吐血を起こし命が危ぶまれる状態にまでなった。それを持ち越して帰京する段で同病院に再入院している。その間のことを書き綴ったのが「思い出す事など」であり、明治43年10月から翌2月まで新聞紙上に掲載された。

「満韓ところどころ」のように目的を持って活動的に書かれたものではなく、実生活での様々な拘束から解き放された境遇で、のんびりと自由な心持ちのもとに書かれた随筆だと言える。心と身体の休暇を心行くまで楽しむ、とまではいかないにしても、嵐が去って風の凪いだときに射す陽光の中でたゆたう感じ、とでも言えばいいのだろうか。そうした心の余裕からか、文章には漢詩や俳句が添えられている。

私(乙山)も含めて多くの人は、ふだん何らかの拘束の元で、ある目的をもって行動し、ときには何かに追われるようにしてつとめを果たしているものであり、なかなか心の平安を得ることができぬのではないか。その一方、休暇によってそのような拘束から解放されるが否や、今度は退屈が忍び寄ってきて自由なはずの自分が、たんなる空虚な自分と化してしまいかねない。心の平安はますます遠のくばかりである。

余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾けてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹渺(ひょうびょう)とでも形容してよい気分であった。(ちくま文庫版『夏目漱石全集7』「思い出す事など」20節)

こうした部分に惹かれるのは、おそらく私自身がそうした心境をなかなか持つことができずにいるからではないかと思う。どうしてそうなのか、じっくり考えて有意義で満ち足りた時間を持ちたいものだとかねがね思ってはいるのだが、修行不足のせいかなかなか思うようにはできずにいる。そんな自分の心を訪ねてみるのにも、「思い出す事など」はいいきっかけになるかもしれない。

ところで夏目漱石は食にかんすることをあまり書かない人だ、などと以前記事に書いたことがあるけれど、これは私の勘違いだったようで、どうも漱石は胃病持ちでありながらけっこう食いしん坊でもあるようだ。胃のせいで思うように食べられない、というのが何よりも辛かったのが漱石ではないのか、そんなことを思わせる部分を引いておきましょう。

 やがて粥を許された。その旨さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君はわざわざ妻(さい)の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終食物の話ばかりしていておかしいと告げた。
 腸に春滴るや粥の味
 (同書、26節)

なんとまあ正直な、そこまで書かなくてもいいでしょうに、と言いたくなるほどである。「思い出す事など」は命が危ない状態まで行った経験を振り返ったものだから、全体の調子は静かな感じで占められているが、こういう部分にはどこかユーモラスな感じも漂っている。この後の漱石の創作にはユーモラスな部分が少なくなっていくようだが、本来はべらんめえ調で滑稽小説を書くのも好きな人なんじゃないかと勝手に思っている。


【付記】
● なんだかもう「夏目漱石を読む」という企画を実行しているような感じになってきました。えっ、そうじゃなかったのか、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、当ウェブログで正式に実行されている企画は「日本のウィスキーを飲む」と「ちゃんぽん調査隊」の二つだけなんです。ま、それとてあってないような企画ですけど、いよいよ夏目漱石の後期作品群に入ろうとしています。その前に前期作品に戻ろうかな……なんてね。

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tag : 夏目漱石

夏目漱石 「満韓ところどころ」

夏目漱石 「満韓ところどころ」 (1909年10月21日~12月30日朝日新聞に掲載)

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夏目漱石の「満韓ところどころ」は「それから」と「門」の間に朝日新聞に連載された紀行文で、東京帝国大学時代からの親友である南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁の中村是公(よしこと、本文中では「ぜこう」とルビが付されている)に招かれて満州や韓国/朝鮮を訪ねたときのことを書いたものである。

旅先の様子を網羅的、客観的に書いた通常の旅行記や見聞録とは多少趣が異なって、漱石の印象に残った事柄をつないで書いていく手法で、随所に登場人物たちの思い出が挿入されることもあるので、紀行文ではあるのだが随筆にかなり近いものになっている。新聞社としては満州の様子を的確に伝える「記事」のようなものを期待したのだろうけど、読者としては夏目漱石の「生の声」に触れる魅力もあったに違いない。少し引いておきましょう。

その頃(1886年、漱石は大学予備門=後の旧制高校いわゆる一高に入学した)は大勢で猿楽町の末富屋という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りをしていた。英語は教場であてられた時に、分らない訳を好い加減につけるだけであった。数学はできるまで塗板の前に立っているのを常としていた。余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立ち往生をしたものだ。(ちくま文庫版『夏目漱石全集7』「満韓ところどころ」14節)

かの漱石も数学だけはどうも苦手だったようで、後の神童みたいな優等生の漱石とはずいぶんかけ離れているようであるが、これは大学に入る前の話。この予備門で実際漱石は落第していて、それをきっかけにして勉学に励むようになったということであり、帝大英文科入学後は特待生になるほどしっかり勉強したのはご存知の通り。予備門時代の話をもう一つ。

橋本(左五郎)は余よりも英語や数学において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺(おやじ)のために盲腸炎にされたと同然である。(同書、13節)

満州とか韓国朝鮮のどこそこがどうの、というような内容よりも、じつは上のような話のほうが面白かったりするのが本当のところで、本編を読む楽しみはこのあたりにあると思う。そもそも出発する以前に胃病で倒れていて、満鉄総裁の中村是公に随行する予定だったものがそのようにできず、中村氏だけ先に出立するという始まりだしなのだ。相当無理をしていることは明らかで、本編中もう何度も「腹(胃)が痛い」とこぼしており、夕食もとらずにそのまま寝込んでしまうというくだりもあったりする。

なので強行スケジュールを組んでの旅行記者としてはやはり無理があったと言わざるを得ないところがある。旅先の叙述はあまり印象に残らなかったのが正直なところだが、大連の電気の工場(発電所か)を見たときの部分は重要である。多少引用が多くなってしまったが、引いておきます。

鉄嶺丸が大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く真直ぐに映じたものはこの工場の煙突であった。(中略)なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、凄じいものである。その一部分では、天井を突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が煉瓦の上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい音が響いている中に、塵を浴びて立った時には、妙な心持がした。ある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの仕掛が猛烈に活動していた。工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその棟を飛び出したくらいである。(同書、15節)

なぜこれが重要なのかというと、見る者を圧倒するような対象を、漱石が「崇高なもの」と判断しているからである。もしこれを坂口安吾が見たならば、まちがいなく「美しい」という言葉を使ったであろう。安吾は「日本文化私観」(1942)においてドライアイス工場を「美しいもの」の例として挙げており、私はそれを今日のいわゆる「工場萌え」の源流ではないか、として記事に書いたことがある(「日本文化私観」の記事へ≫)。

ドライアイス工場を見て「美しい」と言われても何か違和感を抱くかもしれないが、それが人を引き付ける不思議な魅力を持っていることは確かで、それに目を付けたのが坂口安吾独特の美学であろう。ひょっとするとカントの『判断力批判』(1790)を読んだことがある人ならば、安吾が「美しいもの」としている対象は、実は「崇高なもの」といったほうが適切なのではないかと気づいたかもしれないのだ。

坂口安吾の挙げる「三つの美しいもの」(小菅刑務所、駆逐艦、ドライアイス工場)を、美しいというよりは崇高なのではないか、と射抜いた人は私の知る限り柄谷行人が最初である。だが漱石はそれよりずっと以前に(哲学書の類もたくさん読んでいる人なので、カントの第三批判も読んでいた可能性はおおいにあると思われる)、ぶれることなく電気の工場を「崇高なもの」と判断したということ、それが強調しておきたい重要な点である。


【付記】
● 「満韓ところどころ」には今日からすると、どうしても表現や表記の点で読みにくい(あまり適切でない)個所がいくつかあるのも本当ですが、それをここで挙げることは割愛させていただきます。実際にお読みになってみると、おわかりかと思います。同年に伊藤博文の暗殺事件もあったと、歴史年表には書かれています。

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tag : 夏目漱石

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只野乙山

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